ですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して貰《もら》ったって、構わないんだが――ただ世間体《せけんてい》がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し悪《にく》いよ」
「だから、話したら好《い》いじゃありませんか」
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は明暸《めいりょう》に答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、御母《おっか》さんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」
「だって向《むこう》で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母《おっか》さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
母は黙っている。
「この間金時計を宗近《むねちか》にやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。一《はじめ》さんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰《おもら》いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方《かた》を見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜《あさぎざくら》は、ことごとく梢《こずえ》を辞して、光る茶色の嫩葉《わかば》さえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木《かなめ》の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を伸《の》した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向《まむき》に見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬《かたほ》をむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然《じねん》と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺《おとっさん》に逢って、よく理由《わけ》は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然《はっきり》しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭《いや》だと申しますから、平《ひら》に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨《むきだし》でも構わないと御思《おおもい》かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋《ふた》も味《み》もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰《もら》うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下《くだ》して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾《あれ》があのまま押し通す料簡《りょうけん》なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一《はじめ》さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪《かんしゃく》の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子《いとこ》でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太《じれった》そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、彼《あの
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