活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子《いす》に倚《よ》り掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの眸《ひとみ》が何となく働らいて来た。睛《せい》を閑所《かんしょ》に転ずる気紛《きまぐれ》の働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼《せま》って来る。甲野さんはおやと、首を動《うごか》した。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつの間《ま》にやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
 馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体《からだ》が衰弱したせいか、頭脳《あたま》の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父《おやじ》に似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと逼《せび》られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
 それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪《むさぼ》るだけで、頭はほかの国に、母も妹《いもと》も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、踵《かかと》を上げる事を解《げ》し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてを棄《す》てる覚悟があるにもせよ、この体《てい》たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖《ふしょう》の子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
 十人は十人の因果《いんが》を持つ。羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹くは、株《しゅ》を守って兎を待つと、等しく一様の大律《たいりつ》に支配せらる。白日天に中《ちゅう》して万戸に午砲の飯《いい》を炊《かし》ぐとき、蹠下《しょか》の民は褥裏《じょくり》に夜半《やはん》太平の計《はかりごと》熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾《ふじお》は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った節糸《ふしいと》の袷《あわせ》は存外|地味《じみ》な代りに、長く明けた袖《そで》の後《うしろ》から紅絹《もみ》の裏が婀娜《あだ》な色を一筋《ひとすじ》なまめかす。帯に代赭《たいしゃ》の古代模様《こだいもよう》が見える。織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞物《しまもの》を、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。座布団《ざぶとん》の縁《ふち》を捲《まく》って、
「おや、煙管《きせる》はどうしたろう」と云う。
 煙管は火鉢の向う側にある。長い羅宇《らお》を、逆《ぎゃく》に、親指の股《また》に挟んで
「はい」と手取形の鉄瓶《てつびん》の上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば御廃《およ》しかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首《がんくび》へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金《おうごん》である。
 五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を開《あ》いた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ私《わたし》が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手《しょて》からこうしないでもほかにいくらも遣口《やりくち》はあらあね」
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も要《い》りゃしないんだが。どうも表向|家《うち》の相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うん
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