こんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力|相若《あいし》くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌《いっちゅう》の末に制する事|能《あた》わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺《あざむ》くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐《きっさ》に富むとき、二人《ににん》の位地は、誠実をもって相対すると毫《ごう》も異なるところなきに至る。この故に偽[#「偽」に傍点]と悪[#「悪」に傍点]とは優勢[#「優勢」に傍点]を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽《ふそくぎ》、不足悪に出会《しゅっかい》するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事|難《かた》しとす。第三の場合は固《もと》より稀《まれ》なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵《ひってき》するをもって常態とすればなり。人|相賊《あいぞく》してついに達する能《あた》わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到《いた》り得べきを思えば、悲しむべし」
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の洋筆軸《ペンじく》を、ぽとりと墨壺《すみつぼ》の底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記を頁《ページ》の上に載せる。両足を踏張《ふんば》って、組み合せた手を、頸根《くびね》にうんと椅子の背に凭《もた》れかかる。仰向《あおむ》く途端に父の半身画と顔を見合わした。
余り大きくはない。半身とは云え胴衣《チョッキ》の釦《ボタン》が二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに洩《も》るる白襯衣《しろシャツ》の色と、額の広い顔だけである。
名のある人の筆になると云う。三年|前《ぜん》帰朝の節、父はこの一面を携えて、遥《はる》かなる海を横浜の埠頭《ふとう》に上《のぼ》った。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に懸《かか》っている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下《みおろ》している。筆を執《と》るときも、頬杖《ほおづえ》を突くときも、仮寝《うたたね》の頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、画布《カンヴァス》の人は、常に書斎を見下している。
見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに錬《ね》り上げた眼玉ではない。一刷毛《ひとはけ》に輪廓を描《えが》いて、眉と睫《まつげ》の間に自然の影が出来る。下瞼《したまぶた》の垂味《たるみ》が見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中に瞳《ひとみ》が活《い》きている。動かないでしかも活きている刹那《さつな》の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速《さそく》に捕えた非凡の技《ぎ》と云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
想界に一瀾《いちらん》を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々《らんらん》相擁《あいよう》して思索の郷《くに》に、吾を忘るるとき、懊悩《おうのう》の頭《こうべ》を上げて、この眼にはたりと逢《あ》えば、あっ、在《あ》ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも烈《はげ》しくおやいたなと驚ろいた。
思出《おもいで》の種に、亡《な》き人を忍ぶ片身《かたみ》とは、思い出す便《たより》を与えながら、亡き人を故《もと》に返さぬ無惨《むざん》なものである。肌に離さぬ数糸の髪を、懐《いだ》いては、泣いては、月日はただ先へと廻《めぐ》るのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが厭《いや》になった。離れても別状がないと落つきの根城を据《す》えて、咫尺《しせき》に慈顔《じがん》を髣髴《ほうふつ》するは、離れたる親を、記憶の紙に炙《あぶ》り出すのみか、逢《あ》える日を春に待てとの占《うら》にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみで毫《ごう》も動かない。――甲野さんは茫然《ぼうぜん》として、眼玉を眺《なが》めながら考えている。
親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭《ひげ》もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹《かか》って頓死《とんし》してしまった。……
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