して見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪《か》き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入《はい》りたくてたまらない。
 高等学校こそ違え、大学では甲野《こうの》さんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪《よしあし》をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に洩《も》れた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内に蓄《たくわ》えているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て差支《さしつかえ》ない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を拱《こまぬ》いて、徒然《とぜん》の日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人《あるじ》となる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、驥《き》も櫪《れき》に伏す天の不公平を、やむを得ず、今日《きょう》まで忍んで来た。一陽は幸《さち》なき人の上にも来《きた》り復《かえ》ると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつ然《ねん》として机に向っている。
 正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生《しばふ》を一目に見渡すのみか、朗《ほがらか》な気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立て籠《こも》っている。
 右手の小窓は、硝子《ガラス》を下《おろ》した上に、左右から垂れかかる窓掛に半《なか》ば蔽《おお》われている。通う光線《ひかり》は幽《かす》かに床《ゆか》の上に落つる。窓掛は海老茶《えびちゃ》の毛織に浮出しの花模様を埃《ほこり》のままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶ褪《さ》めた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の隙間《すきま》から硝子へ顔を圧《お》しつけて、外を覗《のぞ》くと扇骨木《かなめ》の植込《うえごみ》を通して池が見える。棒縞《ぼうじま》の間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の筋向《すじむこう》が藤尾《ふじお》の座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に凭《よ》ってじっとしている。焚《た》き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる体《てい》である。
 やがて、かたりと書物を置き易《か》える音がする。甲野さんは手垢《てあか》の着いた、例の日記帳を取り出して、誌《つ》け始める。
「多くの人は吾《われ》に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。曰《いわ》く。命に服せざれば汝を嫉《にく》まんと」
 細字《さいじ》に書き終った甲野さんは、その後《あと》に片仮名《かたかな》でレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再び故《もと》の座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆《ペン》がころころと机を滑《すべ》って床《ゆか》に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机の角《かど》に突張って、心持腰を後《うしろ》へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜《てさぐり》に取り上げた洋筆軸《ペンじく》は父が西洋から買って来てくれた昔土産《むかしみやげ》である。
 甲野さんは、指先に軸を撮《つま》んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌《てのひら》のなかに落し込む。掌の向《むき》を上下に易《か》えると、長い軸は、ころころと前へ行き後《うし》ろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念《かたみ》である。
 洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。頁《ページ》をはぐると
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