ら、すぐ片づける事も出来る。宗近《むねちか》のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野《こうの》なら超然として板挟《いたばさ》みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。向《むこう》へ行って一歩深く陥《はま》り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡《から》んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後《あと》から被《かぶ》せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥《おちい》るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を拱《こまぬ》いて、自然の為《な》すがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像すると怖《おそろ》しくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、眼《ま》のあたりに見るようになるかもしれぬ。是非ここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二三日の余裕はある。二三日よく考えた上で決断しても遅くはない。二三日立って善《よ》い智慧《ちえ》が出なければ、その時こそ仕方がない。浅井を捕《つらま》えて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考で、浅井の帰りを勘定に入れて、二三日の猶予をと云った。こんな事は人情に拘泥《こうでい》しない浅井に限る。自分のような情に篤《あつ》いものはとうてい断わり切れない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
月はまだ天《そら》のなかにいる。流れんとして流るる気色《けしき》も見えぬ。地に落つる光は、冴《さ》ゆる暇なきを、重たき温気《おんき》に封じ込められて、限りなき大夢を半空に曳《ひ》く。乏しい星は雲を潜《くぐ》って向側《むこうがわ》へ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのが辛《かろ》うじて輝やくようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。
十五
部屋は南を向く。仏蘭西式《フランスしき》の窓は床《ゆか》を去る事五寸にして、すぐ硝子《ガラス》となる。明《あ》け放てば日が這入《はい》る。温《あたた》かい風が這入る。日は椅子《いす》の足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井《てんじょう》まで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を据《す》える。蒲鉾形《かまぼこなり》に引戸を卸《おろ》せば、上から錠《じょう》がかかる。明ければ、緑の羅紗《らしゃ》を張り詰めた真中を、斜めに低く手元へ削《けず》って、背を平らかに、書を開くべき便宜《たより》とする。下は左右を銀金具の抽出《ひきだし》に畳み卸してその四つ目が床に着く。床は樟《くす》の木の寄木《よせき》に仮漆《ヴァーニッシ》を掛けて、礼に叶《かな》わぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
そのほかに洋卓《テエブル》がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様《いまよう》を華奢《きゃしゃ》な昔に忍ばして、室《へや》の真中を占領している。周囲《まわり》に並ぶ四脚の椅子は無論|同式《どうしき》の構造《つくり》である。繻子《しゅす》の模様も対《つい》とは思うが、日除《ひよけ》の白蔽《しろおい》に、卸す腰も、凭《もた》れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
書棚は壁に片寄せて、間《けん》の高さを九尺|列《つら》ねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋《むこう》から取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字《かくもじ》の金は、縦にも横にも奇麗である。
小野さんは欽吾《きんご》の書斎を見るたびに羨《うらやま》しいと思わぬ事はない。欽吾も無論|嫌《きら》ってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けると直《すぐ》応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手狭《てぜま》な住居《すまい》を、二十世紀に取り拡《ひろ》げた便利の結果である。趣味に叶《かな》うと云わんよりは、むしろ実用に逼《せま》られて、時好の程度に己《おの》れを委却《いきゃく》した建築である。さほどに嬉《うれ》しい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
こう云う書斎に這入《はい》って、好きな書物を、好きな時に読んで、厭《あ》きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽《ごくらく》だろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述を
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