「それでは――御疎怱《おそうそう》であった」
 小野さんはすっきりと立つ。先生は洋灯《ランプ》を執《と》る。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ穏《おだやか》な晩です」と小野さんは靴の紐《ひも》を締めつつ格子《こうし》から往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
 屈《こご》んでいた小野さんはようやく沓脱《くつぬぎ》に立った。格子が明《あ》く。華奢《きゃしゃ》な体躯《からだ》が半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
 小野さんは恭《うやうや》しく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
 外は朧《おぼろ》である。半《なか》ば世を照らし、半ば世を鎖《とざ》す光が空に懸《かか》る。空は高きがごとく低きがごとく据《すわ》らぬ腰を、更《ふ》けぬ宵《よい》に浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸い縁《ふち》に黄を帯びた輪をぼんやり膨《ふく》らまして輪廓も確《たしか》でない。黄な帯は外囲《そとい》に近く色を失って、黒ずんだ藍《あい》のなかに煮染出《にじみだ》す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛《まぎ》れやすい晩である。
 小野さんの靴は、湿《しめ》っぽい光を憚《はば》かるごとく、地に落す踵《かかと》を洋袴《ズボン》の裾《すそ》に隠して、小路《こうじ》を蕎麦屋《そばや》の行灯《あんどん》まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香《におい》がする。地に※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]《し》く影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと揺《ゆ》れて去る。下駄の音は朧《おぼろ》に包まれて、霜《しも》のようには冴《さ》えぬ。撫《な》でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸《ひとみ》を不審と据《す》えると白墨の相々傘《あいあいがさ》が映《うつ》る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た霞《かすみ》が立て籠《こ》める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば靄《もや》のなか、出《いず》れば月の世界である。小野さんは夢のように歩《ほ》を移して来た。※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]々《くく》として独《ひと》り行くと云う句に似ている。
 実は夕食《ゆうめし》もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡《りょうけん》で、得意な襞《ひだ》の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。今宵《こよい》はいつまで立っても腹も減らない。牛乳《ミルク》さえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、確《しか》と踏答《ふみごた》えがないような心持である。そと卸《おろ》すせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧は要《い》らぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
 なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服《きもの》の着こなし方に至って、ことごとく粋《すい》を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいが乗《の》っ引《ぴ》きならぬ羽目《はめ》に陥《おち》る。水に溺《おぼ》れるものは水を蹴《け》ると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と諦《あきら》めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
 女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。吾妻下駄《あずまげた》と駒下駄の音が調子を揃《そろ》えて生温《なまぬる》く宵を刻んで寛《ゆたか》なるなかに、話し声は聞える。
「洋灯《ランプ》の台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人が応《こた》える。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」と後《あと》の声がまた応《こた》える。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だか暖《あった》か過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯は温《あった》まりますから」と説明する。
 二人の話はここで小野さんの向側《むこうがわ》を通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけが斜《はす》に出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首を捩《ね》じ向けて、立ち留っていた小野さんは、また歩き出した。
 浅井のように気の毒気の少ないものな
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