うでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが判然《はっきり》していれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。大体《おおよそ》」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「来々月《さらいげつ》はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
 小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ馬鹿気《ばかげ》ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
 小野さんはまた返事のしようがなかった。
 東京は物価《もの》が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞《なるみしぼり》の兵児帯《へこおび》を締めて芋粥《いもがい》に寒さを凌《しの》いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽《いぼう》の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩《あんま》の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ湧《わ》いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空《いっさいくう》である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
 小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸《のば》して洋灯《ランプ》の心《しん》をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観が瞬《またたき》と共に変るように明るくなる。小野さんはまだ螺旋《ねじ》から手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
 小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで覗《のぞ》いて見る。やがて背広《せびろ》の表隠袋《おもてかくし》から、真白な手巾《ハンケチ》を撮《つま》み出して丁寧に指頭《ゆびさき》の油を拭き取った。
「少し灯《ひ》が曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度|嗅《か》いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は股《また》の開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん御手数《おてすう》を掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん慣《な》れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い按排《あんばい》でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに因《よ》ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
「一昨《おととい》かの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは捩《ね》じ上げた五分心《ごぶじん》の頭を無心に眺《なが》めている。浅井の帰京と五分心の関係を見極《みきわ》めんと思索するごとくに眸子《ぼうし》は一点に集った。
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け易《か》えた。例になく口の角《かど》にいささかの決心を齎《もたら》している。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が判然《はっきり》さえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、夜《よ》の針は疾《と》く回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
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