、後がないのを確かめたいような様子である。
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
小野さんは恭《うやうや》しく屑籠を受取った。宗近君は飄然《ひょうぜん》として去る。
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の家《うち》へ着く。着くのはありがたくない。孤堂先生の家へ急ぎたいのではない。小野さんは何だか急ぎたいのである。両手は塞《ふさが》っている。足は動いている。恩賜の時計は胴衣《チョッキ》のなかで鳴っている。往来は賑《にぎや》かである。――すべてのものを忘れて、小野さんの頭は急いでいる。早くしなければならん。しかしどうして早くして好いか分らない。ただ一昼夜が十二時間に縮まって、運命の車が思う方角へ全速力で廻転してくれるよりほかに致し方はない。進んで自然の法則を破るほどな不料簡《ふりょうけん》は起さぬつもりである。しかし自然の方で、少しは事情を斟酌《しんしゃく》して、自分の味方になって働らいてくれても好さそうなものだ。そうなる事は受合だと保証がつけば、観音《かんのん》様へ御百度を踏んでも構わない。不動様へ護摩《ごま》を上げても宜《よろ》しい。耶蘇教《ヤソきょう》の信者には無論なる。小野さんは歩きながら神の必要を感じた。
宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと軽蔑《さげす》む事もある。露骨でいやになる事もある。しかし今更のように考えて見ると、あの態度は自分にはとうてい出来ない態度である。出来ないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中には出来もせぬが、またしたくもない事がある。箸《はし》の先で皿を廻す芸当は出来るより出来ない方が上品だと思う。宗近の言語動作は無論自分には出来にくい。しかし出来にくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を圧《お》しつけようとしている景色《けしき》が寸毫《すんごう》も先方に見えないのにこちらは何となく感じてくる。ただ会釈《えしゃく》もなく思うままを随意に振舞っている自然のなかから、どうだと云わぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それが祟《たた》って、徳義が制裁を加えるとのみ思い通して来たがそればかりではけっしてない。例《たと》えば天を憚《はば》からず地を憚からぬ山の、無頓着《むとんじゃく》に聳《そび》えて、面白からぬと云わんよりは、美くしく思えぬ感じである。星から墜《お》つる露を、蕊《ずい》に受けて、可憐の弁《はなびら》を、折々は、風の音信《たより》と小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは檜山《ひのきやま》と花圃《はなばたけ》の差《ちがい》で、本来から性《しょう》が合わぬから妙な感じがするに違ない。
性《しょう》が合わぬ人を、合わねばそれまでと澄していた事もある。気の毒だと考えた事もある。情《なさけ》ないと軽蔑《さげす》んだ事もある。しかし今日ほど羨《うらやま》しく感じた事はない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみに引《ひ》き較《くら》べて、急に羨ましくなった。
藤尾には小夜子《さよこ》と自分の関係を云い切ってしまった。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添う小《ち》さき影を、逢《あ》わぬ五年を霞《かすみ》と隔てて、再び逢《お》うたばかりの朦朧《ぼんやり》した間柄と云い切ってしまった。恩を着るは情《なさけ》の肌、師に渥《あつ》きは弟子《ていし》の分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防《しんぼう》して来た嘘《うそ》はとうとう吐《つ》いてしまった。ようやくの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を実《まこと》と偽《いつ》わる料簡《りょうけん》はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も嫌《きらい》だと聞く。今日からは
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