是非共嘘を実と通用させなければならぬ。
 それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、手詰《えづめ》に出られると跳《は》ねつける勇気はない。もう少し冷刻に生れていれば何の雑作《ぞうさ》もない。法律上の問題になるような不都合はしておらんつもりだから、判然《はっきり》断わってしまえばそれまでである。しかしそれでは恩人に済まぬ。恩人から逼《せま》られぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然が早く廻転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――後《あと》は? 後は後から考える。事実は何よりも有効である。結婚と云う事実が成立すれば、万事はこの新事実を土台にして考え直さなければならん。この新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
 ただ機一髪と云う間際《まぎわ》で、煩悶《はんもん》する。どうする事も出来ぬ心が急《せ》く。進むのが怖《こわ》い。退《しり》ぞくのが厭《いや》だ。早く事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。したがって気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。
 春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき浅黄《あさぎ》の幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上に被《かぶ》さってくる。払い退《の》ける風も見えぬ往来は、夕暮のなすがままに静まり返って、蒼然《そうぜん》たる大地の色は刻々に蔓《はびこ》って来る。西の果《はて》に用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変った。
 蕎麦屋《そばや》の看板におかめの顔が薄暗く膨《ふく》れて、後《うしろ》から点《つ》ける灯《ひ》を今やと赤い頬に待つ向横町《むこうよこちょう》は、二間足らずの狭い往来になる。黄昏《たそがれ》は細長く家と家の間に落ちて、鎖《とざ》さぬ門《かど》を戸ごとにくぐる。部屋のなかはなおさら暗いだろう。
 曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る格子戸《こうしど》をそろりと明けると、なかは、ほのくらく近づく宵《よい》を、一段と刻んで下へ降りたような心持がする。
「御免」と云う。
 静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどに穏《おだやか》である。幅一尺の揚板《あげいた》に、菱形《ひしがた》の黒い穴が、椽《えん》の下へ抜けているのを眺《なが》めながら取次をおとなしく待つ。返事はやがてした。うん[#「うん」に傍点]と云うのか、ああ[#「ああ」に傍点]と云うのかはい[#「はい」に傍点]と云うのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴を覗《のぞ》きながら取次を待っている。やがて障子《しょうじ》の向《むこう》でずしんと誰か跳《は》ね起きた様子である。怪しい普請《ふしん》と見えて根太《ねだ》の鳴る音が手に取るように聞える。例の壁紙模様の襖《ふすま》が開《あ》く。二畳の玄関へ出て来たなと思う間《ま》もなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔が髯《ひげ》もろともに現われた。
 平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、躯《からだ》が細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、辛《から》い浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は一層《ひとしお》顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い隙間《すきま》を白いのが埋《うず》めて、白い隙間を風が通る。
 古《いにしえ》の人は顎《あご》の下まで影が薄い。一本ずつ吟味して見ると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんは鄭寧《ていねい》に帽を脱いで、無言のまま挨拶《あいさつ》をする。英吉利刈《イギリスがり》の新式な頭は、眇然《びょうぜん》たる「過去」の前に落ちた。
 径《さしわたし》何十尺の円を描《えが》いて、周囲に鉄の格子を嵌《は》めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児《がんろうじ》はわれ先にとこの箱へ這入《はい》る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
 英吉利式《イギリスしき》の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯《ひげ》に、世を佗《わ》び古りた記念のためと、大事に胡麻塩《ごましお》を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々《かたかた》が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
 昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、降《くだ》りつつ夜に行くものの前に鄭寧《ていねい》な頭《こうべ》を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、
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