様子が違う。
「旨いんだろう、何となく眠気《ねむけ》を催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上|色彩《つや》がある。
「冷やかすんじゃない。真面目《まじめ》なところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか尊《たっ》といところがある」
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候|後《おく》れだなどとけなしたがる」
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云う謎《なぞ》である。
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を軽蔑《けいべつ》している。
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐《かい》がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の縁《ふち》から、斜めに宗近君を見ると、相変らず、紙屑籠《かみくずかご》を揺《ふ》って、揚々《ようよう》と正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返した時は何となく勢《せい》がなかった。
「どんなって、よっぽど深い因縁《いんねん》と見える」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と孤堂《こどう》先生との関係をぷすりと切って棄てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうする訳にも行かない。京の宿屋は何百軒とあるに、何で蔦屋《つたや》へ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶棒《かじぼう》を卸《おろ》して、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。酔興《すいきょう》だと思う。余計な悪戯《いたずら》だと思う。先方に益《えき》もないのに好んで人を苦しめる泊り方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
も[#「も」に傍点]の字が少し気になる。春雨の欄に出て、連翹《れんぎょう》の花もろともに古い庭を見下《みくだ》された事は、とくの昔に知っている。今更|引合《ひきあい》に出されても驚ろきはしない。しかし二階からも[#「も」に傍点]となると剣呑《けんのん》だ。そのほかにまだ見られた事があるにきまっている。不断なら進んで聞くところだが、何となく空景気《からけいき》を着けるような心持がして、どこで[#「どこで」に傍点]と押を強く出損《でそく》なったまま、二三歩あるく。
「嵐山《らんざん》へ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
小野さんは突然|冗談《じょうだん》を云う。にわかに景気が好くなった。
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり嵐山《らんざん》だ」
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が停車場《ステーション》へ迎えに行ったところも見た」
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡の珠《たま》のはずれから、変に相手の横顔を覗《のぞ》き込んだ。
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が? 蔦屋《つたや》の?」
念を押したような、後《あと》が聞きたいような
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