から白状させようとする。宗近君は向《むこう》から正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――故《もと》の先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を外《そら》した。向側《むこうがわ》の硝子戸《ガラスど》のなかに金文字入の洋書が燦爛《さんらん》と詩人の注意を促《うな》がしている。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ馳《か》け抜けた。小野さんも小走《こばしり》に跟《つ》いて来る。
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の眼鏡《めがね》を硝子窓に擦《す》り寄せて余念なく見取れている。
小羊《ラム》の皮を柔らかに鞣《なめ》して、木賊色《とくさいろ》の濃き真中に、水蓮《すいれん》を細く金に描《えが》いて、弁《はなびら》の尽くる萼《うてな》のあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を回《まわ》らしたのがある。背を平らに截《た》って、深き紅《くれない》に金髪を一面に這《は》わせたような模様がある。堅き真鍮版《しんちゅうばん》に、どっかと布《クロース》の目を潰《つぶ》して、重たき箔《はく》を楯形《たてがた》に置いたのがある。素気《すげ》なきカーフの背を鈍色《にびいろ》に緑に上下《うえした》に区切って、双方に文字だけを鏤《ちりば》めたのがある。ざら目の紙に、品《ひん》よく朱の書名を配置した扉《とびら》も見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘《バインジング》だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部《うわべ》を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情《なさけ》ない」
「とかく眼鏡が祟《たた》るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「冗談《じょうだん》を云っちゃいけない。――さあ好加減《いいかげん》に歩こう」
二人は肩を比《なら》べてまた歩き出した。
「君、鵜《う》と云う鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら云う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫《りょうし》の魚籃《びく》の中に這入《はい》るから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠《くずかご》のなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。得《とく》の行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「行為《アクション》さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅《ぼたもち》を画《え》にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺《なが》めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんは間《ま》を延ばして答えたが、
「例《たと》えば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜《ゆうべ》の女ね」
小野さんの腋《わき》の下が何だかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
琴《こと》の事件なら糸子から聞いた。その外《ほか》に何も知るはずがない。
「蔦屋《つたや》の裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾いていた」
「なかなか旨《うま》いでしょう」と小野さんは容易に悄然《しょげ》ない。藤尾に逢った時とは少々
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