地面の上を歩行《あるい》ていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく適合《あてはま》った小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに逢《あ》っては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に捕《つら》まると何となく不安である。宗近君と藤尾《ふじお》の関係を知るような知らぬような間《ま》に、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向《おもてむき》人の許嫁《いいなずけ》を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われ故《ゆえ》に、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、毫《ごう》も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談《じょうだん》を云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を解《げ》せぬ男だろう。藤尾の夫《おっと》には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己《おのれ》を含んでいる。悪戯《いたずら》をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見《りょうけん》よりは何となく物騒だと云う感じが重《おも》である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷《らい》の嫌《きらい》なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡《しゅんじゅん》するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣《おもむき》が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは鄭寧《ていねい》に聞いた。
「うん。今、その角《かど》で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
この答は少々論理に叶《かな》わないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで差支《さしつかえ》ない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その紙屑籠《かみくずかご》を出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど嵩張《かさば》る割に軽いもんだね。見っともないと云うのは小野さんの事だ」と宗近君は屑籠を揺《ふ》りながら歩き出す。
「そう云う風に提《さ》げるとさも軽そうだ」
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ勧工場《かんこうば》で買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が這入《はい》っていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多《めった》な屑は入れられない」
「歌反古《うたほご》とか、五車《ごしゃ》反古と云うようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものは要《い》らない。紙幣《しへい》の反古をたくさん入れて貰いたい」
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に反古《ほご》になる訳だな。乞う隗《かい》より始めよか。人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は昨夕《ゆうべ》妙な伴《つれ》とイルミネーションを見に行ったね」
見物に行った事はさっき露見してしまった。今更《いまさら》隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野《こうの》さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかも是非共こちら
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