つまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――阿爺《おとっさん》と兄さんの傍《そば》を離れると変ります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「私《わたし》もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変れば変る方がいいんでしょう。どうかして藤尾《ふじお》さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」
 甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに羨《うらやま》しいんですか」
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと危《あぶ》ない」
 女は依然として、肉余る瞼《まぶた》を二重《ふたえ》に、愛嬌《あいきょう》の露を大きな眸《ひとみ》の上に滴《したたら》しているのみである。危ないという気色《けしき》は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕《ゆうべ》のような女を五人殺します」
 鮮《あざや》かな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。殺す[#「殺す」に傍点]と云う言葉はさほどに怖《おそろ》しい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
 女は咽喉《のど》から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥《の》み下《くだ》した。顔は真赤《まっか》になる。
「嫁に行くと変ります」
 女は俯向《うつむ》いた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
 可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜《あまりょう》の影が渡る。鷺草《さぎそう》とも菫《すみれ》とも片づかぬ花は依然として春を乏《とも》しく咲いている。

        十四

 電車が赤い札を卸《おろ》して、ぶうと鳴って来る。入れ代って後《うしろ》から町内の風を鉄軌《レール》の上に追い捲《ま》くって去る。按摩《あんま》が隙《すき》を見計って恐る恐る向側《むこうがわ》へ渡る。茶屋の小僧が臼《うす》を挽《ひ》きながら笑う。旗振《はたふり》の着るヘル地の織目は、埃《ほこり》がいっぱい溜って、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出て来る。鳥打帽が寄席《よせ》の前に立っている。今晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は針線《はりがね》だらけである。一羽の鳶《とび》も見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる雑駁《ざっぱく》な世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
 二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
 今度は印絆天《しるしばんてん》が向いた。
 呼ばれた本人は、知らぬ気《げ》に、来る人を避《よ》けて早足に行く。抜き競《くら》をして飛んで来た二|輛《りょう》の人力《じんりき》に遮《さえ》ぎられて、間はますます遠くなる。宗近《むねちか》君は胸を出して馳《か》け出した。寛《ゆる》く着た袷《あわせ》と羽織が、足を下《おろ》すたんびに躍《おどり》を踊る。
「おい」と後《うしろ》から手を懸《か》ける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの細面《ほそおもて》が斜《なな》めに見えた。両手は塞《ふさ》がっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
 小野さんは帽子のまま鄭寧《ていねい》に会釈《えしゃく》した。両手は塞《ふさ》がっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも聴《きこ》えない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の歩行方《あるきかた》がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを提《さ》げていると歩行にくいから……」
 小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが紙屑籠《かみくずかご》、こっちが洋灯《ランプ》の台」
「そんなハイカラな形姿《なり》をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を提《さ》げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
 小野さんは黙って笑ながら御辞儀《おじぎ》をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
 小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも
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