ょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、皆《みんな》して御茶を飲んだでしょう」
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しい方《かた》を連れていらしったでしょう」
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は逢《あ》った事は何遍もあります」
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
 二重瞼《ふたえまぶた》に寄る波は、寄りては崩《くず》れ、崩れては寄り、黒い眸《ひとみ》を、見よがしに弄《もてあそ》ぶ。繁《しげ》き若葉を洩《も》る日影の、錯落《さくらく》と大地に鋪《し》くを、風は枝頭《しとう》を揺《うご》かして、ちらつく苔《こけ》の定かならぬようである。甲野さんは糸子の顔を見たまま、なぜの説明を求めなかった。糸子も進んでなぜの訳を話さなかった。なぜ[#「なぜ」に傍点]は愛嬌《あいきょう》のうちに溺《おぼ》れて、要領を得る前に、行方《ゆくえ》を隠してしまった。
 塗り立てて瓢箪形《ひょうたんなり》の池浅く、焙烙《ほうろく》に熬《い》る玉子の黄味に、朝夕を楽しく暮す金魚の世は、尾を振り立てて藻《も》に潜《もぐ》るとも、起つ波に身を攫《さらわ》るる憂《うれい》はない。鳴戸《なると》を抜ける鯛《たい》の骨は潮に揉《も》まれて年々《としどし》に硬くなる。荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも徒事《いたずらごと》では通れない。ただ広海《ひろうみ》の荒魚《あらうお》も、三つ尾の丸《まる》っ子《こ》も、同じ箱に入れられれば、水族館に隣合《となりあわせ》の友となる。隔たりの関は見えぬが、仕切る硝子《ガラス》は透《す》き通りながら、突き抜けようとすれば鼻頭《はなづら》を痛めるばかりである。海を知らぬ糸子に、海の話は出来ぬ。甲野さんはしばらく瓢箪形に応対をしている。
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは椽側《えんがわ》の方を見た。野面《のづら》の御影《みかげ》に、乾かぬ露が降りて、いつまでも湿《しっ》とりと眺《なが》められる径《わたし》二尺の、縁《ふち》を択《えら》んで、鷺草《さぎそう》とも菫《すみれ》とも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春を偸《ぬす》んで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
 糸子の目には正面の赤松と根方《ねがた》にあしらった熊笹《くまざさ》が見えるのみである。
「どこに」と暖い顎《あご》を延ばして向《むこう》を眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
 糸子は少し腰を上げた。長い袖《そで》をふらつかせながら、二三歩|膝頭《ひざがしら》で椽《えん》に近く擦《す》り寄って来る。二人の距離が鼻の先に逼《せま》ると共に微《かす》かな花は見えた。
「あら」と女は留《とま》る。
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」

 甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「昨夜《ゆうべ》の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を翻《ひるが》えしてじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
 賞《ほ》められたのか、腐《くさ》されたのか分らない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものか解《かい》しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目《まじめ》に云うから、真面目にそうでしょうかと云うよりほかに道はない。
 文《あや》は人の目を奪う。巧は人の目を掠《かす》める。質は人の目を明かにする。そうでしょうか[#「そうでしょうか」に傍点]を聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。直下《じきげ》に人の魂を見るとき、哲学者は理解《りげ》の頭《かしら》を下げて、無念とも何とも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
 糸子は美くしい歯を露《あら》わした。
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、い
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