えて、清を呼べば、清は裏へでも行ったらしい。からりとした勝手には茶釜《ちゃがま》ばかりが静かに光っている。黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中に埋《うず》めて、机の上に猫のように寝ているだろう。立《た》ち退《の》いた空屋敷《あきやしき》とも思わるるなかに、内玄関《ないげんかん》でこちこち音がする。はてなと何気なく障子を明けると――広い世界にたった一人の甲野さんが立っている。格子《こうし》から差す戸外《そと》の日影を背に受けて、薄暗く高い身を、合土《たたき》の真中に動かしもせず、しきりに杖を鳴らしている。
「あら」
同時に杖の音《ね》はとまる。甲野さんは帽の廂《ひさし》の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが上《のぼ》って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
「御出《おいで》?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼《ふたえまぶた》に愛嬌《あいきょう》の波が寄った。
「御留守ですか。――阿爺《おとっ》さんは」
「父は謡《うたい》の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯《からだ》を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入《おはいり》、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後《あと》へ引いた。着物はあらい縞《しま》の銘仙《めいせん》である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後《うしろ》から掠《かす》めて来る日影に、蒼《あお》い頬が、気のせいか、昨日《きのう》より少し瘠《こ》けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「私《わたし》も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾《あらまさ》の俎下駄《まないたげた》を脱いで座敷へ上がる。
長押作《なげしづく》りに重い釘隠《くぎかくし》を打って、動かぬ春の床《とこ》には、常信《つねのぶ》の雲竜《うんりゅう》の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角《かく》に取り巻く紋緞子《もんどんす》の藍《あい》に、寂《さ》びたる時代は、象牙《ぞうげ》の軸さえも落ちついている。唐獅子《からじし》を青磁《せいじ》に鋳《い》る、口ばかりなる香炉《こうろ》を、どっかと据《す》えた尺余の卓は、木理《はだ》に光沢《つや》ある膏《あぶら》を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻《ごま》濃《こま》やかな紫檀《したん》である。
椽《えん》に遅日《ちじつ》多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く絣《かすり》の前を合せる。乱菊に襟《えり》晴れがましきを豊《ゆたか》なる顎《あご》に圧《お》しつけて、面と向う障子の明《あきらか》なるを眩《まばゆ》く思う女は入口に控える。八畳の座敷は眇《びょう》たる二人を離れ離れに容《い》れて広過ぎる。間は六尺もある。
忽然《こつぜん》として黒田さんが現れた。小倉《こくら》の襞《ひだ》を飽くまで潰《つぶ》した袴《はかま》の裾《すそ》から赭黒《あかぐろ》い足をにょきにょきと運ばして、茶を持って来る。煙草盆《たばこぼん》を持って来る。菓子鉢を持って来る。六尺の距離は格《かた》のごとく埋《うず》められて、主客の位地は辛うじて、接待の道具で繋《つな》がれる。忽然《こつぜん》として午睡の夢から起きた黒田さんは器械的に縁《えにし》の糸を二人の間に渡したまま、朦朧《もうろう》たる精神を毬栗頭《いがぐりあたま》の中に封じ込めて、再び書生部屋へ引き下がる。あとは故《もと》の空屋敷《あきやしき》となる。
「昨夕《ゆうべ》は、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない? 私《わたし》より丈夫だね」と甲野さんは少し笑い掛けた。
「だって、往復《ゆきかえり》共電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に片靨《かたえくぼ》を見せたばかりである。返事はしなかった。
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を傾《かた》げて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。
「何ですかその面白かったものは」
「云って見まし
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