いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙《すき》に
「そんなに忙《いそが》しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を後《うしろ》へ引く。長い髪が一筋ごとに活《い》きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高《かんだか》く笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然《ぼうぜん》としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。燦《さん》たる金剛石《ダイヤモンド》がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆《しっぺい》でぴしゃりと頬辺《ほおぺた》を叩《たた》かれた。同時に頭の底で見られた[#「見られた」に傍点]と云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩《そうくずれ》となる。
「実は一週間前に京都から故《もと》の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と嘯《うそぶ》きながら頭を低《た》れた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕《ゆうべ》兄と一《はじめ》さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺《ふち》に亀屋《かめや》の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで皆《みんな》して御茶を飲んだんです」
 男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、飽《あ》くまでも粧《よそお》う。
「大変|旨《おいし》い御茶でした事。あなた、まだ御這入《おはいり》になった事はないの」
 小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度《こんだ》是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
 藤尾は一さん[#「一さん」に傍点]と云う名前を妙に響かした。
 春の影は傾《かたぶ》く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちん[#「ちん」に傍点]と切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜《よ》の夢に藤尾は、驚くうちは楽《たのしみ》がある! 女は仕合《しあわせ》なものだ! と云う嘲《あざけり》の鈴《れい》を聴かなかった。

        十三

 太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。夜中郵便《やちゅうゆうびん》と書いて板塀《いたべい》に穴があいているところを見ると夜は締《しま》りをするらしい。正面に芝生《しばふ》を土饅頭《どまんじゅう》に盛り上げて市《いち》を遮《さえ》ぎる翠《みどり》を傘《からかさ》と張る松を格《かた》のごとく植える。松を廻れば、弧線を描《えが》いて、頭の上に合う玄関の廂《ひさし》に、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。呑気《のんき》な白襖《しろぶすま》に舞楽の面ほどな草体を、大雅堂《たいがどう》流の筆勢で、無残《むざん》に書き散らして、座敷との仕切《しきり》とする。
 甲野《こうの》さんは玄関を右に切れて、下駄箱の透《す》いて見える格子《こうし》をそろりと明けた。細い杖《つえ》の先で合土《たたき》の上をこちこち叩《たた》いて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気合《けわい》も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえって賑《にぎ》やかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
 やがて静かなうちで、すうと唐紙《からかみ》が明く音がする。清《きよ》や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子《いとこ》と甲野さんは顔を見合せて立った。
 下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても滅多《めった》に取次に出る事はない。出ようと思う間《ま》に、立てかけた膝《ひざ》をおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき琵琶《びわ》の抱《だ》き心地と云う永い昼が、永きに堪《た》えず崩れんとするを、鳴く※[#「亡/(虫+虫)」、第3水準1−91−58]《あぶ》にうっとりと夢を支
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