と同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵《きず》とは云わせぬ。今宵限《こよいかぎり》の朧《おぼろ》だものと、即興にそそのかされて、他生《たしょう》の縁の袖《そで》と袂《たもと》を、今宵限り擦《す》り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋《うず》めて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支《さしつかえ》ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併《なら》べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月《としつき》を、向《むこう》では離れじと、日《ひ》の間《ま》とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁《えにし》の色に、細くともこれまで繋《つな》ぎ留《と》められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘《うそ》となる。嘘は河豚汁《ふぐじる》である。その場限りで祟《たたり》がなければこれほど旨《うま》いものはない。しかし中毒《あたっ》たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実《まこと》を手繰寄《たぐりよ》せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便《たより》もあるに、隠そうとする身繕《みづくろい》、名繕、さては素性《すじょう》繕に、疑《うたがい》の眸《ひとみ》の征矢《そや》はてっきり的《まと》と集りやすい。繕は綻《ほころ》びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》は生涯《しょうがい》洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者《りこうもの》である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸に括《くく》られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血に通《かよ》うこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸《てくび》に暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知《しら》を切る当座の嘘は吐《つ》きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「昨夕《ゆうべ》博覧会へ御出《おいで》に……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたか[#「御出になりましたか」に傍点]にしようか、御出になったそうですね[#「御出になったそうですね」に傍点]にしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻面《はなづら》を掠《かす》めて、黒い影が颯《さっ》と横切って過ぎた。男はあっと思う間《ま》に先《せん》を越されてしまう。仕方がないから、
「奇麗《きれい》でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確《きっぱり》受け留める。後《あと》から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当《けんとう》がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。当《あた》り障《さわ》りのない答は大抵の場合において愚《ぐ》な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ[#「見ましたよ」に傍点]」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘《つぐ》んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛《むねもり》と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審《つまびらか》にする必要がある。
「誰か御伴《おつれ》がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと拗《す》ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の外《ほか》にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦《うず》の中を漕《こ》ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの間《ま》にやら平地《ひらち》へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急
前へ
次へ
全122ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング