。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱に罹《かか》った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用《らんよう》すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の挟《はさま》ったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈語《ねごと》を云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。一《はじめ》にやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
 対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
 椽側《えんがわ》を曲って母の影が障子《しょうじ》のうちに消えたとき、小野さんは内玄関《ないげんかん》の方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
 磬《けい》を打って入室相見《にゅうしつしょうけん》の時、足音を聞いただけで、公案の工夫《くふう》が出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った和尚《おしょう》がある。気の引けるときは歩き方にも現われる。獣《けもの》にさえ屠所《としょ》のあゆみと云う諺《ことわざ》がある。参禅《さんぜん》の衲子《のうし》に限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にも利《き》く。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は一入《ひとしお》変である。落人《おちゅうど》は戦《そよ》ぐ芒《すすき》に安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す靴足袋《くつたび》の黒き爪先《つまさき》に憚《はばか》り気を置いて這入《はい》って来た。
 一睛《いっせい》を暗所《あんしょ》に点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう舐《な》められている。
「今日《こんにち》は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸《ひとみ》はぐらついた。
「御無沙汰《ごぶさた》をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は遮《さえぎ》った。ただしそれぎりである。
 男は出鼻を挫《くじ》かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ暖《あった》かになりました」
「ええ」
 座敷のなかにこの二句を点じただけで、後《あと》は故《もと》のごとく静になる。ところへ鯉《こい》がぽちゃりとまた跳《はね》る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉が[#「鯉が」に傍点]と云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷《こぶし》に注《つ》いている。――壺《つぼ》のごとく長い弁《はなびら》から、濃い紫《むらさき》が春を追うて抜け出した後は、残骸《なきがら》に空《むな》しき茶の汚染《しみ》を皺立《しわだ》てて、あるものはぽきりと絶えた萼《うてな》のみあらわである。
 鯉が[#「鯉が」に傍点]と云おうとした小野さんはまた廃《や》めた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえ[#「いいえ」に傍点]と受けた。男は仕損《しま》ったと心得て、だいぶ暖《あったか》になりましたと気を換えて見たが、それでも験《げん》が見えぬので、鯉が[#「鯉が」に傍点]の方へ移ろうとしたのである。男は踏み留《とど》まれるところまで滑《すべ》って行く気で、気を揉《も》んでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
 四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕《ゆうべ》博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いで汚《むさ》い腫物《しゅもつ》を知らぬ人の鼻の前《さき》に臭《にお》わせる
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