甲野さんの日記には鳥入《とりいって》雲無迹《くもにあとなく》、魚行《うおゆいて》水有紋《みずにもんあり》と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書《かいしょ》でかいてある。春光は天地を蔽《おお》わず、任意に人の心を悦《よろこ》ばしむ。ただ謎の女には幸《さいわい》せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂《すいきょう》と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
 浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭《せいせん》を畳むと云った。銭《ぜに》のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩《わか》い命を托して、娑婆《しゃば》の風に薄い顔を曝《さら》すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙《みのがみ》の薄きに過ぎて、重苦しと碧《みどり》を厭《いと》う柔らかき茶に、日ごとに冒《おか》す緑青《ろくしょう》を交ぜた葉の上には、鯉の躍《おど》った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠《たま》となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺《なが》める。鯉はまた躍った。
 母は無意味に池の上を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みつめ》ていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
 藤尾は屹《きっ》と向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ眸《ひとみ》を反《そ》らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走《かんばし》るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないか[#「ないか」に傍点]と聞くのさ」
「病気なもんですか」
 清水《きよみず》の舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「御前《おまい》――あの人と喧嘩《けんか》でもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
 謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
 昨夕《ゆうべ》の事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論|躍起《やっき》になって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓《うえ》に逼《せま》って、知らぬ人の門口《かどぐち》に、一銭二銭の憐《あわれみ》を乞うのと大した相違はない。同情は我《が》の敵である。昨日《きのう》まで舞台に躍る操人形《あやつりにんぎょう》のように、物云うも懶《ものう》きわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、果《はて》は笑わしたり、焦《じ》らしたり、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]さして、面白く興じていた手柄顔を、母も天晴《あっぱ》れと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄《みえ》をぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の昨夕《ゆうべ》を見たら、招く薄《すすき》は向《むこう》へ靡《なび》く。知らぬ顔の美しい人と、睦《むつま》じく御茶を飲んでいたと、心外な蓋《ふた》をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。外《そ》れた鷹《たか》なら見限《みきり》をつけてもういらぬと話す。あとを跟《つ》けて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時に辛《から》い目に逢《あ》わせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]さしたりする。そうして、面白そうな手柄顔《てがらがお》を、母に見せれば母への面目は立つ。兄と一《はじめ》に見せれば、両人《ふたり》への意趣返《いしゅがえ》しになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は躍《おど》る。蓮《はす》は芽《め》を吹く、芝生はしだいに青くなる、辛夷《こぶし》は朽《く》ちた。謎の女はそんな事に頓着《とんじゃく》はない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ
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