産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利《き》かぬ。無一物の某《それがし》を入れて、おとなしく嫁姑《よめしゅうとめ》を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。夫《おっと》が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に帰《き》してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸《はだか》になれるものなら、降って湧《わ》いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳《いしょう》はそう無雑作《むぞうさ》に剥《は》ぎ取れるものではない。降りそうだから傘《かさ》をやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人が濡《ぬ》れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思《おも》わくもある。そこに謎《なぞ》が出来る。くれると云うのは本気で云う嘘《うそ》で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々《いやいや》ながら受取った顔つきに、文明の手前を繕《つくろ》わねばならぬ。そこで謎が解《と》ける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡《りょうけん》で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを飽《あ》くまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦し紛《まぎ》れの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮《じれった》いが高《こう》じて、布団の上に坐《い》たたまれないからである。出て見ると春の日は存外|長閑《のどか》で、平気に鬢《びん》を嬲《なぶ》る温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色《きしょく》が悪くなった。
椽《えん》を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は鍵《かぎ》の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅《ひしもち》の底を渡る気で真直《まっすぐ》な向う角を見ると藤尾が立っている。濡色《ぬれいろ》に捌《さば》いた濃き鬢《びん》のあたりを、栂《つが》の柱に圧《お》しつけて、斜めに持たした艶《えん》な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸《てくび》だけが白く見える。萩に伏し薄《すすき》に靡《なび》く故里《ふるさと》を流離人《さすらいびと》はこんな風に眺《なが》める事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母《おっか》さん」と斜《なな》めな身体を柱から離す。振り返った眼つきには愁《うれい》の影さえもない。我《が》の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と我《が》が聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉《ひごい》が跳《は》ねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母《おっか》さんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう蓮《はす》の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今|始《はじめ》て」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶《うかつ》である。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳《かや》を畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀《こおろぎ》が鳴く。時雨《しぐ》れる。木枯《こがらし》が吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所に坐《すわ》って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁《うすにごり》のする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽く温《ぬる》む底から、朦朧《もうろう》と朱《あか》い影が静かな土を動かして、浮いて来る。滑《なめ》らかな波にきらりと射す日影を崩《くず》さぬほどに、尾を揺《ゆ》っているかと思うと、思い切ってぽんと水を敲《たた》いて飛びあがる。一面に揚《あが》る泥の濃きうちに、幽《かす》かなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去る痕《あと》は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆《あし》を風なきに嬲《なぶ》る。
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