さんから遠退《とおの》いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖に牽《ひ》かれて故《もと》へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴の踵《かかと》に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を描《えが》く事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
 一歩の空間を行き尽した靴は、光る頭《こうべ》を回《めぐ》らして、棄身《すてみ》に細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
 棒のごとく真直《まっすぐ》に立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことに因《よ》ると今日は下読が出来ていないかも知れない」
 細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく被《かぶ》ったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関に掛《か》かる。
 小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に倚《よ》りながら、席に返らぬ爪先《つまさき》を、雨戸引く溝の上に翳《かざ》して、手広く囲い込んだ庭の面を眺《なが》めている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、謎《なぞ》の女は立て切った一間《ひとま》のうちで、鳴る鉄瓶《てつびん》を相手に、行く春の行き尽さぬ間《ま》を、根限《こんかぎ》り考えている。
 欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考《かんがえ》は、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍《ふえん》すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶の音《ね》を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑《ひま》のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
 居住《いずまい》は心を正す。端然《たんねん》と恋に焦《こが》れたもう雛《ひいな》は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
 老いて夫《おっと》なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上に忌《いま》わしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ掟《おきて》は忌わしいのみか情《なさ》けない。謎の女は自《みずから》を情ない不幸の人と信じている。
 他人でも合わぬとは限らぬ。醤油《しょうゆ》と味淋《みりん》は昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょに呑《の》めば咳が出る。親の器《うつわ》の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経《へ》れば日を重ねて隔《へだた》りの関が出来る。この頃は江戸の敵《かたき》に長崎で巡《めぐ》り逢《あ》ったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に逆《さから》って、師走《しわす》正月の拍子《ひょうし》をはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子《しし》としては不都合と思う。こんなものに死水《しにみず》を取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
 幸《さいわい》と藤尾がいる。冬を凌《しの》ぐ女竹《めだけ》の、吹き寄せて夜《よ》を積る粉雪《こゆき》をぴんと撥《は》ねる力もある。十目《じゅうもく》を街頭に集むる春の姿に、蝶《ちょう》を縫い花を浮かした派出《はで》な衣裳《いしょう》も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿《むこ》と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦《じ》らしてこそ、育て上げた母の面目は揚《あが》る。海鼠《なまこ》の氷ったような他人にかかるよりは、羨《うらやま》しがられて華麗《はなやか》に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
 蘭《らん》は幽谷《ゆうこく》に生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名ある聟《むこ》を取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日《こんにち》まで出来ずにいた。燦《さん》として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌《あいきょう》があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
 小野さんは申分《もうしぶん》のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財
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