藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり見下《みおろ》している。何事とも知らず「埃及《エジプト》の御代《みよ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
 藤尾の眼は火打石を金槌《かなづち》の先で敲《たた》いたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
 藤尾はぎりぎりと歯を噛《か》んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に倚《よ》っている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分|私《わたし》があずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木《よせき》の机に凭《もた》せた肘《ひじ》を跳《は》ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊《とくさ》と海老茶《えびちゃ》の棒縞《ぼうじま》が、棒のごとく揃《そろ》って立ち上がる。裾《すそ》だけが四色《よいろ》の波のうねりを打って白足袋の鞐《こはぜ》を隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底《うんさいぞこ》の踵《かかと》を見せて、向《むこう》へ行ってしまった。
 甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に籠《こも》る青味を蒸《む》し返して、湿《しめ》りながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。磨《みが》き上げた山羊《やぎ》の皮に被《かむ》る埃《ほこり》さえ目につかぬほどの奇麗《きれい》な靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
 世を投《な》げ遣《や》りのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織の紐《ひも》を丸打に結んで、細い杖に本来空《ほんらいくう》の手持無沙汰《てもちぶさた》を紛《まぎ》らす甲野さんと、近づいてくる小野さんは塀《へい》の側《そば》でぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け応《こたえ》があった。そのまま洋杖《ステッキ》は動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは躊躇《ちゅうちょ》する。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕《ゆうべ》見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
 小野さんはああ[#「ああ」に傍点]の後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥《ほととぎす》は一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
 甲野さんにははたして連《つれ》があった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまず繋《つな》ぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時《なんじ》頃?」の方が便宜《べんぎ》ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸《めいりょう》になる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉《のど》の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢《あか》ほど先《せん》を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻《ひるが》えす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図《さしず》をしたらしく感じた時、後《うしろ》から押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野
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