、きっと来る、と藤尾は口の中《うち》で云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
 よし来ても昨夜《ゆうべ》の女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分を焦《じ》らす料簡《りょうけん》だろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人が仄《ほのめ》かした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
 小野はどうしても詫《あやま》らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面《からかいづら》にあてつけた二人の悪戯《いたずら》は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫《つらぬ》こうと、洗髪《あらいがみ》の後《うしろ》に顔を埋《うず》めて考えている。
 静かな椽《えん》に足音がする。背の高い影がのっと現われた。絣《かすり》の袷《あわせ》の前が開いて、肌につけた鼠色《ねずみいろ》の毛織の襯衣《シャツ》が、長い三角を逆様《さかさま》にして胸に映《うつ》る上に、長い頸《くび》がある、長い顔がある。顔の色は蒼《あお》い。髪は渦《うず》を捲《ま》いて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日は櫛《くし》を入れないとも思われる。美くしいのは濃い眉《まゆ》と口髭《くちひげ》である。髭の質《たち》は極《きわ》めて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣を具《そな》えて何となく人柄に見える。腰は汚《よご》れた白縮緬《しろちりめん》を二重《ふたえ》に周《まわ》して、長過ぎる端《はじ》を、だらりと、猫じゃらしに、右の袂《たもと》の下で結んでいる。裾《すそ》は固《もと》より合わない。引き掛けた法衣《ころも》のようにふわついた下から黒足袋《くろたび》が見える。足袋だけは新らしい。嗅《か》げば紺《こん》の匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾《きんご》は、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側《えんがわ》へ出た。
 拭き込んだ細かい柾目《まさめ》の板が、雲斎底《うんさいぞこ》の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負《せお》った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入《はい》る。足袋の主は見なくても知れている。
 紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
 声は後《うしろ》でする。雨戸の溝《みぞ》をすっくと仕切った栂《つが》の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪《あらいがみ》を見下《みおろ》した。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇《やまかがし》の首を擡《もた》げた時のようである。黒い髪に陽炎《かげろう》を砕く。
 男は、眼さえ動かさない。蒼《あお》い顔で見下《みおろ》している。向き直った女の額をじっと見下している。
「昨夕《ゆうべ》は面白かったかい」
 女は答える前に熱い団子をぐいと嚥《の》み下《くだ》した。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶《あいさつ》をする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
 女は急《せ》いて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら悠々《ゆうゆう》として柱に倚《よ》って人を見下しているのは、酒を飲みつつ胡坐《あぐら》をかいて追剥《おいはぎ》をすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちは楽《たのしみ》があるんでしょう」
 女は逆《さか》に寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた気色《けしき》さえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の十分一《じゅうぶいち》と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩《けんか》をすると妙な現象が起る。
 姿勢を変えるさえ嬾《もの》うく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「楽《たのしみ》?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する気遣《きづかい》がない」
 藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように楽《たのしみ》の多いものは危ないよ」

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