くして、満腔《まんこう》の誠を捧げてわが玩具《おもちゃ》となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉《まゆ》に、わが唇《くちびる》に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰《かつごう》する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
 唯々《いい》として来《く》るべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄き粧《よそおい》を日ごとにして我《が》の角《かど》を鏡の裡《うち》に隠していた。その五日目の昨夕《ゆうべ》! 驚くうちは楽《たのしみ》がある! 女は仕合せなものだ! 嘲《あざけり》の鈴《れい》はいまだに耳の底に鳴っている。小机に肱《ひじ》を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背を椽《えん》に、顔を影なる居住《いずまい》は、考え事に明海《あかるみ》を忌《い》む、昔からの掟《おきて》である。
 縄なくて十重《とえ》に括《くく》る虜《とりこ》は、捕われたるを誇顔《ほこりがお》に、麾《さしまね》けば来り、指《ゆびさ》せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人と併《なら》んで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神|懸《か》けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
 冴《さ》えぬ白さに青味を含む憂顔《うれいがお》を、三五の卓を隔てて電灯の下《もと》に眺めた時は、――わが傍《かたえ》ならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、気遣《きづか》わし気《げ》に、また親し気に、この人と半々に洋卓《テーブル》の角を回って向き合っていた時は、――撞木《しゅもく》で心臓をすぽりと敲《たた》かれたような気がした。拍子《ひょうし》に胸の血はことごとく頬に潮《さ》す。紅《くれない》は云う、赫《かっ》としてここに躍《おど》り上がると。
 我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。有《あれ》ども無きがごとくに装《よそお》え。昂然《こうぜん》として水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが復讐《ふくしゅう》である。
 我の女はいざと云う間際《まぎわ》まで心細い顔をせぬ。恨《うら》むと云うは頼る人に見替られた時に云う。侮《あなどり》に対する適当な言葉は怒《いかり》である。無念と嫉妬《しっと》を交《ま》ぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に優《まさ》る不面目と思う。小野さんはたしかに淑女を辱《はずか》しめた。
 愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依《きえ》の頭《こうべ》を下げながら、二心《ふたごころ》の背を軽薄の街《ちまた》に向けて、何の社《やしろ》の鈴を鳴らす。牛頭《ごず》、馬骨《ばこつ》、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の御賽銭《おさいせん》を投げて、波か字かの辻占《つじうら》を見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から早速《さそく》に放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った餌食《えじき》である。外へはやられぬ。神聖なる玩具として生涯《しょうがい》大事にせねばならぬ。
 神聖とは自分一人が玩具《おもちゃ》にして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕《ゆうべ》から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――肱《ひじ》を持たして、俯向《うつむ》くままの藤尾の眉が活きて来る。
 玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我《が》は愛を八《や》つ裂《ざき》にする。面当《つらあて》はいくらもある。貧乏は恋を乾干《ひぼし》にする。富貴《ふうき》は恋を贅沢《ぜいたく》にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。尖《とが》る錐《きり》に自分の股《もも》を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも価《あたい》ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠《ほふ》る。逆《さか》しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我《プライド》! 我《プライド》! と叫ぶ。――藤尾は俯向《うつむき》ながら下唇を噛《か》んだ。
 逢《あ》わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕《ゆうべ》帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪《あやま》らせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る
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