通り越して、向う側はと覗《のぞ》き込むとき、眩《まば》ゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思う蓼《たで》の花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかの細《ほっそ》りした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木《よせき》の小机に肱《ひじ》を持たせて俯向《うつむ》いている。
 心臓の扉を黄金《こがね》の鎚《つち》に敲《たた》いて、青春の盃《さかずき》に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背《そむ》けるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いて妄《みだ》りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地《つち》には花吹雪《はなふぶき》、一年を重ねて二十に至って愛の神は今が盛《さかり》である。緑濃き黒髪を婆娑《ばさ》とさばいて春風《はるかぜ》に織る羅《うすもの》を、蜘蛛《くも》の囲《い》と五彩の軒に懸けて、自《みずから》と引き掛《かか》る男を待つ。引き掛った男は夜光の璧《たま》を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を逆《さかしま》にして、後《のち》の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教《ヤソきょう》の牧師は救われよという。臨済《りんざい》、黄檗《おうばく》は悟れと云う。この女は迷えとのみ黒い眸《ひとみ》を動かす。迷わぬものはすべてこの女の敵《かたき》である。迷うて、苦しんで、狂うて、躍《おど》る時、始めて女の御意はめでたい。欄干《らんかん》に繊《ほそ》い手を出してわん[#「わん」に傍点]と云えという。わん[#「わん」に傍点]と云えばまたわん[#「わん」に傍点]と云えと云う。犬は続け様にわん[#「わん」に傍点]と云う。女は片頬《かたほ》に笑《えみ》を含む。犬はわん[#「わん」に傍点]と云い、わん[#「わん」に傍点]と云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を逆《さかしま》にして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
 石仏《せきぶつ》に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基《もとづ》いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜《ひょうぼう》して憚《はば》からぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼《せま》る。相手を愛するの資格を具《そな》えざるがためである。※[#「目+分」、第3水準1−88−77]《へん》たる美目《びもく》に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危《あやう》い。倩《せん》たる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午《ひのえうま》である。藤尾は己《おの》れのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
 愛の対象は玩具《おもちゃ》である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄《もてあそ》ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫《いちごう》も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外《はず》れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風《はるかぜ》の吹き回しで、旨《あま》い潮の満干《みちひき》で、はたりと天地の前に行き逢《あ》った時、この変則の愛は成就する。
 我《が》を立てて恋をするのは、火事頭巾《かじずきん》を被《かぶ》って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを溶《と》かす。角張《かどば》った絵紙鳶《えだこ》も飴細工《あめざいく》であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに渉《わた》ってもふやける[#「ふやける」に傍点]気色《けしき》を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
 沙翁《シェクスピア》は女を評して脆《もろ》きは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通す昂《あが》れる恋は、炊《かし》ぎたる飯の柔らかきに御影《みかげ》の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛《か》み締めるものに護謨《ゴム》の弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを択《えら》んだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉《あぶらぜみ》はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近《むねちか》君を捕《と》るは容易である。宗近君を馴《な》らすは藤尾といえども困難である。我《が》の女は顋《あご》で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌《しいか》の璧《たま》を懐《ふところ》に抱《いだ》いて来る。夢にだもわれを弄《もてあそ》ぶの意思な
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