と真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込《ひとごみ》へは滅多《めった》に出つけた事がないもんですから」
 文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて怖《こわ》がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
 小夜子は返事を控えて淋《さみ》しく笑った。
「先生も雑沓《ざっとう》する所が嫌《きらい》でしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を外《はず》して、畳の上に置いてある埋木《うもれぎ》の茶托を眺《なが》める。京焼の染付茶碗《そめつけぢゃわん》はさっきから膝頭《ひざがしら》に載《の》っている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋《ポッケット》から煙草入を取り出す。闇《やみ》を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出《はで》を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金《ときん》に、銀《しろかね》の冴《さ》えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
 忙しがる小野を無理に都合させて、好《す》かぬ人込へわざわざ出掛けるのも皆《みんな》自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、袖《そで》振り交わして、長閑《のどか》な歩《あゆみ》を、春の宵《よい》に併《なら》んで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇《ためら》った。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態《せたい》染みた料簡《りょうけん》からではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味が籠《こも》っている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色《けしき》をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み馴《な》れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の中《うち》ではそれほど性《しょう》に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
 小夜子はまた口籠《くちごも》る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭《におい》のする煙草を燻《くゆ》らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌《きらい》も御前の舵《かじ》の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪《こうお》を支配する人間から、素知らぬ顔ですき[#「すき」に傍点]かきらい[#「きらい」に傍点]かを尋ねられるのは恨《うら》めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達《はきはき》せぬのかと思う。
 胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨《うま》い具合に渡し込む。
 女はまた口籠る。男は少し焦慮《じれった》くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑《おひま》ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場《かんこうば》ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私《わたし》が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
 父の好意は再び水泡《すいほう》に帰した。小夜子は悄然《しょうぜん》として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載《の》せて手早く表へ出る。――同時に逝《ゆ》く春の舞台は廻る。
 紫を辛夷《こぶし》の弁《はなびら》に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽《く》ちかかる椽《えん》に、干《ほ》す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎《かげろう》が立つ。黒きを外に、風が嬲《なぶ》り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶《ちょう》がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、後《うし》ろからさす日の影に、耳を蔽《おお》うて肩に流す鬢《びん》の影に、しっとりとして仄《ほのか》である。千筋《ちすじ》にぎらついて深き菫《すみれ》を一面に浴せる肩を
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