紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を開《あ》けた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見える栞《しおり》があらわれる。小野さんは左の手に栞を滑《すべ》らして、細かい活字を金縁の眼鏡《めがね》の奥から読み始める。五分《ごふん》ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつの間《ま》にやら、黒い眼は頁《ページ》を離れて、筋違《すじかい》に日脚《ひあし》の伸びた障子《しょうじ》の桟《さん》を見詰めている。――四五日藤尾に逢《あ》わぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日《とおか》でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には梳《くしけず》る間も千金である。逢えば逢うたびに願の的《まと》は近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる縁《えにし》はない。のみならず、魔は節穴《ふしあな》の隙《すき》にも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、籠《こも》る一夜《ひとよ》に月は入《い》る。等閑《なおざり》のこの四五日に藤尾の眉《まゆ》にいかな稲妻《いなずま》が差しているかは夢|測《はか》りがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭蕉布《ばしょうふ》の襖《ふすま》を開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李《やなぎこうり》が見える。小野さんは行李の上に畳んである背広《せびろ》を出して手早く着換《きか》え終る。帽子は壁に主《ぬし》を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒《はなお》の上草履《うわぞうり》に、カシミヤの靴足袋《くつたび》を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談《じょうだん》か」と行こうとすると、卸《おろ》し立ての草履が片方《かたかた》足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯《ランプ》部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ余《あん》まり周章《あわて》るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変|真面目《まじめ》ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛《きがかり》な顔をして障子の傍《そば》に上草履を揃《そろ》えたまま廊下の突き当りを眺《なが》めている。何が出てくるかと思う。焦茶《こげちゃ》の中折が鴨居《かもい》を越すほどの高い背を伸《の》して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開《むなあき》の狭い胴衣《チョッキ》から白い襯衣《シャツ》と白い襟《えり》が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳《いしょう》を、見栄《みばえ》のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》に挿《さ》し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲《まが》ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端《はじ》にあらわれた。海老茶色《えびちゃいろ》の緞子《どんす》の片側が竜紋《りょうもん》の所だけ異様に光線を射返して見える。在来《ありきた》りの銘仙《めいせん》の袷《あわせ》を、白足袋《しろたび》の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢《ながじゅばん》らしいものがちらと色めいた。同時に遮《さえ》ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女《なんにょ》の視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは崩《くず》さない。女ははっと躊躇《ためら》う。やがて頬に差す紅《くれない》を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を注《さ》さぬ黒髪に、漣《さざなみ》の琥珀《こはく》に寄る幅広の絹の色が鮮《あざやか》な翼を片鬢《かたびん》に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶《あいさつ》をする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入《おはい》んなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足《すりあし》に廊下を滑《すべ》って来る。
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入《はい》る。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話を促《うな》がす。
「昨夜は御忙《おいそが》しいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭《おかげ》さまで」と云う顔は何となく窶《やつ》れている。男はちょっ
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