う男が脊髄病《せきずいびょう》を煩《わずら》って糸瓜《へちま》の水を取った。貧に誇る風流は今日《こんにち》に至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれを卑《いや》しとする。
 仙人は流霞《りゅうか》を餐《さん》し、朝※[#「さんずい+亢」、第3水準1−86−55]《ちょうこう》を吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像に耽《ふけ》るためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
 文明の詩は金剛石《ダイヤモンド》より成る。紫《むらさき》より成る。薔薇《ばら》の香《か》と、葡萄《ぶどう》の酒と、琥珀《こはく》の盃《さかずき》より成る。冬は斑入《ふいり》の大理石を四角に組んで、漆《うるし》に似たる石炭に絹足袋《きぬたび》の底を煖《あたた》めるところにある。夏は氷盤《ひょうばん》に莓《いちご》を盛って、旨《あま》き血を、クリームの白きなかに溶《とか》し込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭《きらん》を見よがしに匂わする温室にある。野路《のじ》や空、月のなかなる花野《はなの》を惜気《おしげ》も無く織り込んだ綴《つづれ》の丸帯にある。唐錦《からにしき》小袖《こそで》振袖《ふりそで》の擦《す》れ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完《まっと》うするために金を得ねばならぬ。
 詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の行《おこない》を愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴《ふうき》の実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
 詩人ほど金にならん商買《しょうばい》はない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共|他《ひと》の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾《ふじお》に頼《たより》たくなるのは自然の数《すう》である。あすこには中以上の恒産《こうさん》があると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥《たんす》と長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾《きんご》は多病である。実の娘に婿《むこ》を取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占《つじうら》があたればいつも吉《きち》である。急《せ》いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、自《おのずか》ら開くべき優曇華《うどんげ》の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲《すもう》をとらぬ、またとれぬ男である。
 天地はこの有望の青年に対して悠久《ゆうきゅう》であった。春は九十日の東風《とうふう》を限りなく得意の額《ひたい》に吹くように思われた。小野さんは優《やさ》しい、物に逆《さから》わぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢と背《そびら》を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁《ぼくじゅう》にも較《くら》ぶべきほどの暗い小《ちさ》い点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留《とどま》っている。仰ぐとぐるぐる旋転《せんてん》しそうに見える。ぱっと散れば白雨《ゆうだち》が一度にくる。小野さんは首を縮めて馳《か》け出したくなる。
 四五日は孤堂《こどう》先生の世話やら用事やらで甲野《こうの》の方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜《ゆうべ》は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子《さよこ》を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母《いっぱんひょうぼ》を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃《こま》やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好《かっこう》な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
 小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考《かんがえ》に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸《めいりょう》な男である。
 ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表
前へ 次へ
全122ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング