は頸《くび》をもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上に竪《たて》に挟んだ燐寸箱《マッチばこ》の横側をしゅっと擦《す》った。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪《べっぴん》だろう」と宗近君は糸子に調戯《からかい》かける。
 俯目《ふしめ》に卓布を眺《なが》めていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしい方《かた》ね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気《そっけ》なく云い放つ。極《きわ》めて低い声である。答を与うるに価《あたい》せぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌《あいづち》を打つ事を屑《いさぎよし》とせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草《まきたばこ》の灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向《したむき》になって燐寸《マッチ》を擦《す》る。刹那《せつな》に藤尾の眸《ひとみ》は宗近君の額を射た。宗近君は知らない。啣《くわ》えた巻煙草に火を移して顔を真向《まむき》に起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。

「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒《いわれ》を」と云いながら角砂糖を茶碗の中へ抛《ほう》り込む。蟹《かに》の眼のような泡《あわ》が幽《かす》かな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子は匙《さじ》でぐるぐる攪《か》き廻している。
「そら阿爺《おとっさん》が云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくら[#「のらくら」に傍点]ものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が嫌《きらい》だよ。柿羊羹《かきようかん》か味噌松風《みそまつかぜ》、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの傍《そば》へ持って行くとすぐ軽蔑《けいべつ》されてしまう」
「そう阿爺《おとうさま》の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣《きづかい》はないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上《おあが》り。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺《おとっさん》のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖《カステラ》を口いっぱいに頬張《ほおば》る。
「ホホホホ一人で饒舌《しゃべ》って……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
 甲野さんは静かに茶碗を卸《おろ》して、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、瞬《またたき》もせず窓を通して映《うつ》る、イルミネーションの片割《かたわれ》を専念に見ている。兄の首はしだいに故《もと》の位地に帰る。
 四人が席を立った時、藤尾は傍目《わきめ》も触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然《こうぜん》として入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落《しゃらく》に女の肩を敲《たた》く。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちは楽《たのしみ》がある。女は仕合せなものだ」と再び人込《ひとごみ》へ出た時、何を思ったか甲野さんは復《また》前言を繰り返した。
 驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! 家《うち》へ帰って寝床へ這入《はい》るまで藤尾の耳にこの二句が嘲《あざけり》の鈴《れい》のごとく鳴った。

        十二

 貧乏を十七字に標榜《ひょうぼう》して、馬の糞、馬の尿《いばり》を得意気に咏《えい》ずる発句《ほっく》と云うがある。芭蕉《ばしょう》が古池に蛙《かわず》を飛び込ますと、蕪村《ぶそん》が傘《からかさ》を担《かつ》いで紅葉《もみじ》を見に行く。明治になっては子規《しき》と云
前へ 次へ
全122ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング