生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早く家《うち》へ帰りたくなった。どうも怖《おそろ》しい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛《くも》の子のように暗い森を蔽《おお》うて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
数《すう》は勢《いきおい》である。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子《おたまじゃくし》のうじょうじょ湧《わ》く所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり[#「ひり」に傍点]出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで紛《はぐ》れるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって怖《こわ》くって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を回《めぐ》るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の湧《わ》き返る薄黒い倫敦《ロンドン》で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐《かい》もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重《ひとえ》の壁に遮《さえぎ》られて隣りの家に煤《すす》けた空を眺《なが》めている。それでも逢《あ》えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利《しゃり》になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古《しゅうこ》に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲《まわり》を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連《おんなれん》はだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は廃《よ》しにするかね」
「でも欽吾《きんご》さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなか旨《うま》い事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には敵《かな》わない」と甲野さんは断案を下《くだ》した。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請《かりぶしん》の入口を跨《また》ぐと、小《ちいさ》い卓に椅子《いす》を添えてここ、かしこに併《なら》べた大広間に、三人四人ずつの群《むれ》がおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんの袂《たもと》をぐいと引いた。後《うしろ》の藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山《ぎょうさん》に何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこが空《あ》いている」とずんずん奥へ這入《はい》って行く。あとを跟《つ》けながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。後《うし》ろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい輝《かがやき》を帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気《なにげ》なき糸子は、優《やさ》しい肩を斜《なな》めに捩《ね》じ向けた。
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を卸《おろ》した三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択《ところえら》ばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、遥《はる》か隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向《まむき》に見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、顎《あご》の下に抜くも嬾《もの》うく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるる憂《う》き髯《ひげ》は小夜子の方に向いている。
「あら御連《おつれ》があるのね」と糸子
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