、明かに向側《むこうがわ》へ渡る。行く道に横《よこた》わるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりと截《き》って長い橋を西から東へ懸《か》ける。白い石に野羽玉《ぬばたま》の波を跨《また》ぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠《ぎぼしゅ》はことごとく夜を照らす白光の珠《たま》である。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに聚《あつま》った。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列に空《くう》に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で埋《うま》っている」
と宗近君が大きな声を出した。
 小野さんは孤堂《こどう》先生と小夜子《さよこ》を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の祠《やしろ》を抜けて圧《お》して来る。向《むこう》が岡《おか》を下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲《まわり》を捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただ揉《も》まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸《せきすん》に見出して、安々と踵《かかと》を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後《うし》ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰《つぶ》すために皆《みんな》が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢《たぜい》の間に立って、多数より優《すぐ》れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存《せいそん》の自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後《のち》家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
 得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負《しょ》って、幅の利《き》かぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎《みとが》められるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の大《おおき》さが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
「阿爺《おとうさん》、大丈夫」と後《うしろ》から呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然《じねん》に押して行けば世話はない」と挟《はさ》まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬《かたほ》に笑《えみ》を見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯《ちょうちん》が孤堂先生の黒い帽子を掠《かす》めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で指《さ》す。手を出せば人の肩で遮《さえ》ぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足を揃《そろ》える暇もなく、そのまま日和下駄《ひよりげた》の前歯を傾けて背延《せいのび》をする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が押《の》しかかる。先生はのめっ[#「のめっ」に傍点]た。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人を援《たす》ける事を拒まぬ親切な人間である。
 文明の波は自《おのず》から動いて頼《たより》のない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へ崩《くず》れ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
 暗い底に藍《あい》を含む逝《ゆ》く春の夜を透《す》かして見ると、花が見える。雨に風に散り後《おく》れて、八重に咲く遅き香《か》を、夜に懸《か》けん花の願を、人の世の灯《ともしび》が下から朗かに照らしている。朧《おぼろ》に薄紅《うすくれない》の螺鈿《らでん》を鐫《え》る。鐫ると云うと硬過《かたすぎ》る。浮くと云えば空を離れる。この宵《よい》とこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうも怖《おそ》ろしい人だね」と追いついた孤堂先
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