る。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は旨《うま》く中《あた》ると俗になるのが通例だ」
「中《あた》ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に外《はず》れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると旨《うま》く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味《まず》くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。聴《き》いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の角《かど》から欽吾《きんご》を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気《むじゃき》に聞く。
 ※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の線を闇《やみ》に渡して空を横に切るは屋根である。竪《たて》に切るは柱である。斜めに切るは甍《いらか》である。朧《おぼろ》の奥に星を埋《うず》めて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻《いなずま》の穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。卍《まんじ》を描《えが》いて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座《ていざ》の真中を貫けとばかり抛《な》げ上げた。かくして塔は棟《むね》に入り、棟は床《とこ》に連《つら》なって、不忍《しのばず》の池《いけ》の、此方《こなた》から見渡す向《むこう》を、右から左へ隙間《すきま》なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
 藍《あい》を含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵《たかまきえ》は堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄《きょくらん》を描き、円塔方柱《えんとうほうちゅう》の数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横に空《くう》を走る※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形を崩《くず》す気色《けしき》が見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好《かっこう》が好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠《かんむり》に紅玉《ルビー》を嵌《は》めたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向《あおむ》いた。
 空は低い。薄黒く大地に逼《せま》る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下《ぶらさ》がっている。柱と連《つら》なり、甍と積む万点の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]は逆《さか》しまに天を浸《ひた》して、寝とぼけた星の眼《まなこ》を射る。星の眼は熱い。
「空が焦《こ》げるようだ。――羅馬《ロウマ》法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中《やなか》から上野の森へかけて大いなる圜《けん》を画《えが》いた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支《さしつかえ》なしか。とにかく女王《クイーン》の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗《きれい》よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
 昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧《お》し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底《みなそこ》から、腐った蓮《はす》の根がそろそろ青い芽《め》を吹きかけている。泥から生れた鯉《こい》と鮒《ふな》が、闇《やみ》を忍んで緩《ゆる》やかに※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》を働かしている。イルミネーションは高い影を逆《さかし》まにして、二丁|余《あまり》の岸を、尺も残さず真赤《まっか》になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を作《な》す。泥に潜《ひそ》む魚の鰭《ひれ》は燃える。
 湿《うるお》える※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]は、一抹《いちまつ》に岸を伸《の》して
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