》い、人は色に趁《はし》る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣《しい》と云い、黄袍《こうほう》と云い、青衿《せいきん》と云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤《どて》を走る弥次馬《やじうま》は必ずいろいろの旗を担《かつ》ぐ。担がれて懸命に櫂《かい》を操《あやつ》るものは色に担がれるのである。天下、天狗《てんぐ》の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕《かくえき》として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
 蛾《が》は灯《とう》に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽《ひ》く。金銀、※[#「石+車」、第3水準1−89−5]※[#「石+渠」、第3水準1−89−12]《しゃこ》、瑪瑙《めのう》、琉璃《るり》、閻浮檀金《えんぶだごん》、の属を挙げて、ことごとく退屈の眸《ひとみ》を見張らして、疲れたる頭を我破《がば》と跳《は》ね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌に鏤《ちりばめ》たる宝石が独《ひと》り幅を利《き》かす。金剛石《ダイアモンド》は人の心を奪うが故《ゆえ》に人の心よりも高価である。泥海《ぬかるみ》に落つる星の影は、影ながら瓦《かわら》よりも鮮《あざやか》に、見るものの胸に閃《きらめ》く。閃く影に躍《おど》る善男子《ぜんなんし》、善女子《ぜんにょし》は家を空《むな》しゅうしてイルミネーションに集まる。
 文明を刺激の袋の底に篩《ふる》い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜《よ》の砂に漉《こ》せば燦《さん》たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
 花電車が風を截《き》って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋《やましたがんなべ》の辺《あたり》で卸《おろ》す。雁鍋はとくの昔に亡《な》くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方《かた》にぞろぞろ行く。
 岡は夜《よ》を掠《から》めて本郷から起る。高き台を朧《おぼろ》に浮かして幅十町を東へなだれる下《お》り口《くち》は、根津に、弥生《やよい》に、切り通しに、驚ろかんとするものを枡《ます》で料《はか》って下谷《したや》へ通す。踏み合う黒い影はことごとく池《いけ》の端《はた》にあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
 松高くして花を隠さず、枝の隙間《すきま》に夜を照らす宵重《よいかさ》なりて、雨も降り風も吹く。始めは一片《ひとひら》と落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中《あいだじゅう》は見るからに、万紅《ばんこう》を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、梢《こずえ》から後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪《ふぶき》はいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやく収《おさま》った。星ならずして夜を護《も》る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点《つ》いた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
 薄《すすき》の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の閃《きらめ》く中に織り出した半月《はんげつ》の数は分からず。幅広に腰を蔽《おお》う藤尾の帯を一尺隔てて宗近《むねちか》君と甲野《こうの》さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「糸子《いとこ》さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を眉《まゆ》深く被《かぶ》って立つ。
 糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の衣《きぬ》の色は黄に似て夜を欺《あざむ》くを、黒いものが幾筋も竪《たて》に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「貴所方《あなたがた》は」と糸子を差し置いて藤尾《ふじお》が振り返る。黒い髪の陰から颯《さっ》と白い顔が映《さ》す。頬の端は遠い火光《ひかり》を受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは楽《たのしみ》があるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯《からだ》を真直《ますぐ》に立てたまま藤尾を見下《みおろ》した。
 黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点《さ》す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書《ただしがき》を附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意であ
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