おさ》えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、圧《お》し付けられた手の痕《あと》を耳朶《みみたぶ》共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重《ふたえ》の瞼《まぶた》は、涼しい眸《ひとみ》を、長い睫《まつげ》に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘《ひじ》に撥《は》ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出《はで》な色の絹紐《リボン》がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目《ふしめ》になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「今度《こんだ》の試験の結果はまだ分らないの」
「もう直《じき》だろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「好《よ》かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方《かた》が好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例《たとえ》に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至《いたり》だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦《く》にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃《よ》そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
 深い日は障子を透《とお》して糸子の頬を暖かに射る。俯向《うつむ》いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻《ひるが》える襦袢《じゅばん》の袖《そで》のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑《おさ》えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨《うま》く手が届くね。盲目《めくら》にすると疳《かん》の好い按摩《あんま》さんが出来るよ」
「だって慣《な》れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴《こと》を引く別嬪《べっぴん》がいてね」
「端書《はがき》に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山《あらしやま》へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚《みと》れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘《うそ》よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁《いんねん》だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃《よ》そう」
「その女の方《かた》は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目《まじめ》にならなくっても好い。実は嘘《うそ》だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪《にく》らしい」
 糸子はめでたく笑った。

        十一

 蟻《あり》は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存《せいそん》のうちに無聊《ぶりょう》をかこつ。立ちながら三度の食につくの忙《いそがし》きに堪《た》えて、路上に昏睡《こんすい》の病を憂《うれ》う。生を縦横に託して、縦横に死を貪《むさぼ》るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃《かみそり》に削《けず》って、人の精神を擂木《すりこぎ》と鈍くする。刺激に麻痺《まひ》して、しかも刺激に渇《かわ》くものは数《すう》を尽くして新らしき博覧会に集まる。
 狗《いぬ》は香《か》を恋《した
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