さし》の先でしきりに敷居を敲《たた》いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで余《あんま》り儲《もう》かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父《おとっさん》が苔盛園《たいせいえん》で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆《ひっくりかえし》でもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺《おとっさん》も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担《かつ》ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ私《わたし》は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度《こんだ》こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌《きらい》なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
「阿父《おとう》さまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日が中《あた》って二階の方が松のために好いって」
「阿爺《おやじ》も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句《ほっく》?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎《いせざき》でしょう」
「いやに光《ぴか》つくじゃないか。兄さんのかい」
「阿爺《おとうさま》のよ」
「阿爺《おとっさん》のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無《ちゃんちゃん》以後|御見限《おみかぎ》りだね」
「あらいやだ。あんな嘘《うそ》ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢《えりあか》だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏《あぶら》が多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父《おとっさん》の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古《おふる》ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠《じんがさ》をかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想《かわいそう》に」
「まだ、あるのよ」
 宗近君は返事をやめて、欄干《らんかん》の隙間《すきま》から庭前《にわさき》の植込を頬杖《ほおづえ》に見下している。
「まだあるのよ。一寸《ちょいと》」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮《つま》んだ合せ目を、見る間《ま》に括《く》けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔《めど》を障子《しょうじ》へ向けて、可愛《かわい》らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細くする。宗近君は依然として長閑《のどか》な心を頬杖に託して庭を眺《なが》めている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
 下顎《したあご》は頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉《のど》から鼻へ抜ける。
「あし[#「あし」に傍点]。分ったでしょう」
「う。うん」
 紺の糸を唇《くちびる》に湿《しめ》して、指先に尖《とが》らすは、射損《いそく》なった針孔を通す女の計《はかりごと》である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母《おっかさん》が御出《おいで》よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶《かな》わない」
「でも品《ひん》がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌《きらい》じゃ、世話の
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