らである。――謎の女の鄭重《ていちょう》なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人《あれ》が断然|家《うち》を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「聟《むこ》かね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「左様《さよう》さね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳《いくつ》ですい」
「もう、明けて四《し》になります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌《てのひら》を下から覗《のぞ》き込むようにする。
「いえもう、身体《なり》ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は放《ほう》って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一《はじめ》さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気《のんき》な女だと覚《おぼ》し召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実は私《わたし》の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一《はじめ》も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日《きょうあす》と云う訳にも行かないですが、晩《おそ》かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの方《かた》なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母《おっかさん》の御考は」
「あの通《とおり》行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり叶《かな》ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人《あれ》に困りますので。一さんは宗近家を御襲《おつ》ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父《おとっさん》がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡《な》くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶《つれあい》さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜《よろ》しい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに湿気《しっけ》を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛《かろ》うじて謎の女の謎をここまで叙し来《きた》った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭《いや》だと云う。日を作り夜を作り、海と陸《おか》とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹《きょうだい》が活動する。六畳の中二階《ちゅうにかい》の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽《しがらき》の鉢《はち》に、蟠《わだか》まる根を盛りあげて、くの字の影を椽《えん》に伏せる。一間《いっけん》の唐紙《からかみ》は白地に秦漢瓦鐺《しんかんがとう》の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床《とこ》は、軸を嫌って、籠花活《かごはないけ》に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、彩《あや》と乱して、糸屑《いとくず》のこぼるるほどの抽出《ひきだし》を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方《ゆくえ》は、一針ごとに春を刻《きざ》む幽《かす》かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這《はらばい》は弥生《やよい》の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指《もの
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