野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東《にしひがし》長短の袂《たもと》を分かって、離愁《りしゅう》を鎖《とざ》す暮雲《ぼうん》に相思《そうし》の関《かん》を塞《せ》かれては、逢《あ》う事の疎《うと》くなりまさるこの年月《としつき》を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気《けなげ》に生い立った阿蒙《あもう》の変りかたではない。色の褪《さ》めた過去を逆《さか》に捩《ね》じ伏せて、目醒《めざま》しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵《こし》らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が恨《うら》めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
新橋へは迎《むかえ》に来てくれた。車を傭《やと》って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛《かたつむり》親子して寝る庵《いおり》を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様《さよう》に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。小《ち》さい手提《てさげ》の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛《ひざかけ》といっしょに先へ行った、刻《きざ》み足の後《うし》ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々《はるばる》と来た二人を案内するためではなく、時候|後《おく》れの親子を追い越して馳《か》け抜けるためのように見える。割符《わりふ》とは瓜《うり》二つを取ってつけて較《くら》べるための証拠《しるし》である。天に懸《かか》る日よりも貴《とうと》しと護《まも》るわが夢を、五年《いつとせ》の長き香洩《かも》る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退《の》いている。握る割符は通用しない。
始めは穴を出でて眩《まばゆ》き故と思う。少し慣《な》れたらばと、逝《ゆ》く日を杖《つえ》に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく咽喉《のど》に滑《す》べり込む長い顎《あご》を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺《なが》めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭《ひげ》を見た。変る髪の風《ふう》と変る装《よそおい》とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯《より》を逆《ぎゃく》に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山《あらしやま》へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山《あらしやま》は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を看《み》る人は星月夜のごとく夥《おびただ》しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父《おとっさん》とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情《なさ》けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣《だいひかく》の温泉などは立派に普請《ふしん》が出来て……」
「そうですか」
「小督《こごう》の局《つぼね》の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「彼所《あすこ》いらは皆《みんな》掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「毎年《まいとし》俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓《ざっとう》しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向《まむき》に返る。金縁の眼鏡《めがね》と薄黒い口髭《くちひげ》がすぐ眸《ひとみ》に映《うつ》る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒《いとくち》の、するすると抜け出しそうな咽喉《のど》を抑《おさ》えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角《かど》を曲ろうとする、どっこいと
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