》は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日《あした》より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、蒸《む》れやすき髪に櫛《くし》の歯を入れる暇もない。不断着の綿入《めんいり》さえ見すぼらしく詩人の眼に映《うつ》る。――粧《よそおい》は鏡に向って凝《こ》らす、玻璃瓶裏《はりへいり》に薔薇《ばら》の香《か》を浮かして、軽く雲鬟《うんかん》を浸《ひた》し去る時、琥珀《こはく》の櫛は条々《じょうじょう》の翠《みどり》を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
「御忙《おいそが》しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己《おの》れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向《うつむ》いて、膝《ひざ》に載《の》せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾《ふじお》の指輪とは無論比較にはならぬ。
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井《てんじょう》の白茶けた板の、二た所まで節穴《ふしあな》の歴然《れっき》と見える上、雨漏《あまもり》の染《し》みを侵《おか》して、ここかしこと蜘蛛《くも》の囲《い》を欺《あざむ》く煤《すす》がかたまって黒く釣りを懸《か》けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸《すぎばし》が一本横に貫ぬいて、長い方の端《はじ》が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退《の》いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢《ひょうのう》でもぶら下げたものだろう。次の間《ま》を立て切る二枚の唐紙《からかみ》は、洋紙に箔《はく》を置いて英吉利《イギリス》めいた葵《あおい》の幾何《きか》模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい縁《ふち》の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく椽《えん》に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上《ちゃけんじょう》ほどもない。丈《じょう》に足らぬ檜《ひのき》が春に用なき、去年の葉を硬《かた》く尖《とが》らして、瘠《や》せこけて立つ後《うし》ろは、腰高塀《こしだかべい》に隣家《となり》の話が手に取るように聞える。
家は小野さんが孤堂《こどう》先生のために周旋したに相違ない。しかし極《きわ》めて下卑《げび》ている。小野さんは心のうちに厭《いや》な住居《すまい》だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣《そでがき》に辛夷《こぶし》を添わせて、松苔《まつごけ》を葉蘭《はらん》の影に畳む上に、切り立ての手拭《てぬぐい》が春風に揺《ふ》らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭《おかげ》さまで、好い家《うち》が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情《なさ》けない。ある人に奴鰻《やっこうなぎ》を奢《おご》ったら、御蔭様で始めて旨《うま》い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑《けいべつ》したそうである。
いじらしい[#「いじらしい」に傍点]のと見縊《みくび》るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしい[#「いじらしい」に傍点]ところがあるとは気がつかなかった。紫が祟《たた》ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い家《うち》でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好《かっこう》なのがなくって……」
と云い懸《か》けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇《けち》な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細い面《おもて》をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣《くるめがすり》は背広に変っている。五分刈《ごぶがり》は光沢《つや》のある毛に変っている。――髭《ひげ》は一躍して紳士の域に上《のぼ》る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟《えり》は卸《おろ》し立てである。飾りには留針《ピン》さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品《ひん》の好い胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》には――恩賜の時計が這入《はい》っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間|一日一夜《ひとひひとよ》も懐《ふところ》に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小
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