突き当る事がある。品《ひん》のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終《しじゅう》突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳《とし》ばかりで、いたずらに育った縞柄《しまがら》と、用い古るした琴《こと》が恨《うら》めしい。琴は蔽《おい》のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。膝《ひざ》に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶《みみたぶ》が、行儀よく、鬢《びん》の末を潜《くぐ》り抜けて、頬《ほお》と頸《くび》の続目《つぎめ》が、暈《ぼか》したように曲線を陰に曳《ひ》いて去る。見事な画《え》である。惜しい事に真向《まむき》に座《すわ》った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退《ひ》き具合、これほどの光線《ひ》に、これほどの色の付き具合は滅多《めった》に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵《かかと》を、地に滅《め》り込むほどに回《めぐ》らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向《まむき》に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻《ひるが》える袖《そで》の香《か》が、濃き紫《むらさき》の眉間《みけん》を掠《かす》めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広《せびろ》の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜《よろ》しく」
「あの……」と口籠《くちごも》っている。
相手は腰を浮かしながら、あの[#「あの」に傍点]のあとを待ち兼ねる。早くと急《せ》き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪《にく》くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道《もぎどう》に離れて行く。未練も会釈《えしゃく》もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然《もうぜん》として、椽《えん》に近く坐った。
降らんとして降り損《そこ》ねた空の奥から幽《かす》かな春の光りが、淡き雲に遮《さえ》ぎられながら一面に照り渡る。長閑《のど》かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶《うっとう》しい。どこやらで琴の音《ね》がする。わが弾《ひ》くべきは塵《ちり》も払わず、更紗《さらさ》の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋《さび》しく壁に持たれている。いつ欝金《うこん》の掩《おい》を除《の》ける事やら。あの曲はだいぶ熟《な》れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾《はじ》く爪の、安らかに幾関《いくせき》の柱《じ》を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐《かいがい》しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日《きのう》のように思う。ちらちらに昼の蛍《ほたる》と竹垣に滴《したた》る連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》に、朝から降って退屈だと阿父様《とうさま》がおっしゃる。繻子《しゅす》の袖口は手頸《てくび》に滑《すべ》りやすい。絹糸を細長く目に貫《ぬ》いたまま、針差の紅《くれない》をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮《あざや》かに眼を醒《さ》ませと、へ[#「へ」に傍点]の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥《は》ねた。曲はたしか小督《こごう》であった。狂う指の、憂《う》き昼を、くちゃくちゃに揉《も》みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴《こと》の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好《すき》な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇《やみ》を破る烏《からす》の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴《ピアノ》でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父《とうさま》は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世は
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