《たまご》を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通《なみ》のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
 意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は滑《なめ》らかな頬《ほお》に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の鉄砲玉は鉛を鎔《と》かして鋳《い》る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は飽《あ》くまでも真面目《まじめ》である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
 娘の笑は、端《はし》なくも母の疑問を起す。子を知るは親に若《し》かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども唐《から》、天竺《てんじく》である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
 母は鋭どき眉《まゆ》の下から、娘を屹《きっ》と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵《したごしらえ》と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍《たけのこ》を輪切りにすると、こんな風になる。張《はり》のある眉《まゆ》に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお籠《こも》る何物かがちょっと閃《はため》いてすぐ消えた。母は相槌《あいづち》を打つ。
「あんな見込のない人は、私《わたし》も好かない」
 趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶《かじ》の頭《かみ》はかん[#「かん」に傍点]と打ち、相槌はとん[#「とん」に傍点]と打つ。されども打たるるは同じ剣《つるぎ》である。
「いっそ、ここで、判然《はっきり》断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺《おとっさん》が、あの金時計を一《はじめ》にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具《おもちゃ》にして、赤い珠《たま》ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰《く》っ着《つ》いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談《じょうだん》半分に皆《みんな》の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎《なぞ》だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺《おとっさん》の口占《くちうら》ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
 藤尾は鋭どい一句を長火鉢の角《かど》に敲《たた》きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
 鎖の先に燃える柘榴石《ガーネット》は、蒔絵《まきえ》の蘆雁《ろがん》を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧《おぼろ》とも化けぬ浅葱桜《あさぎざくら》が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今|少時《しばし》と護《まも》る椽《えん》に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面《やさおもて》の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子《しょうじ》のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
 同時に豊かな灯《ひ》が宗近家の座敷に点《とも》る。静かなる夜を陽に返す洋灯《ランプ》の笠に白き光りをゆかしく罩《こ》めて、唐草《からくさ》を一面に高く敲《たた》き出した白銅の油壺《あぶらつぼ》が晴がましくも宵《よい》に曇らぬ色を誇る。灯火《ともしび》の照らす限りは顔ごとに賑《にぎ》やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火《ともしび》の周囲《まわり》に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好《かっこう》と思う。
「それじゃ相輪※[#「木+棠」、第3水準1−86−14]《そうりんとう》も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎《あご》はやむを得ず二重《ふたえ》に折れている。頭はだいぶ禿《は》げかかった。これを時々|撫《な》でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※[#「木+棠」、第3
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