》さんにも分らないね」
雲井の煙は会釈《えしゃく》なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同《おんな》じ事ですね」
「同じ事さ。生涯《しょうがい》あれなんだよ」
御母《おっか》さんの疳《かん》の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家《うち》を襲《つ》ぐのがあんなに厭《いや》なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪《にく》いんだよ。あんな事を云って私達《わたしたち》に当付《あてつ》けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日《きょう》までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮《に》え切らないっちゃありゃしない。彼人《あのひと》の顔を見るたんびに阿母《おっかさん》は疳癪《かんしゃく》が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知《しら》を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕《はら》む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多《めった》にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃《およ》しなさい、阿母《おっか》さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉《と》じ籠《こも》って寝転んでるしさ。――そうして他人《ひと》には財産を藤尾にやって自分は流浪《るろう》するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近《むねちか》の阿爺《おとっさん》の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質《たち》ですね。それより早く糸子《いとこ》さんでも貰《もら》ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡《りょうけん》はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶《てつびん》を卸《おろ》して、炭取を取り上げた。隙間《すきま》なく渋《しぶ》の洩《も》れた劈痕焼《ひびやき》に、二筋三筋|藍《あい》を流す波を描《えが》いて、真白《ましろ》な桜を気ままに散らした、薩摩《さつま》の急須《きゅうす》の中には、緑りを細く綯《よ》り込んだ宇治《うじ》の葉が、午《ひる》の湯に腐《ふ》やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は疾《と》く抜け出した香《かおり》のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を敲《たた》くほどは、さほどとも思えぬが、縁《ふち》に近くようやく色を増して、濃き水は泡《あわ》を面《おもて》に片寄せて動かずなる。
母は掻《か》き馴《な》らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭《さくらずみ》の白き残骸《なきがら》の完《まった》きを毀《こぼ》ちて、心《しん》に潜む赤きものを片寄せる。温《ぬく》もる穴の崩《くず》れたる中には、黒く輪切の正しきを択《えら》んで、ぴちぴちと活《い》ける。――室内の春光は飽《あ》くまでも二人《ふたり》の母子《ぼし》に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑《さいぎ》不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴《かんかそきん》の春を司《つかさ》どる人の歌めく天《あめ》が下《した》に住まずして、半滴《はんてき》の気韻《きいん》だに帯びざる野卑の言語を臚列《ろれつ》するとき、毫端《ごうたん》に泥を含んで双手に筆を運《めぐ》らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須《きゅうす》と、佐倉の切り炭を描《えが》くは瞬時の閑《かん》を偸《ぬす》んで、一弾指頭《いちだんしとう》に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔《むか》しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉《うれ》しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切《せつ》なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、一《はじめ》もよっぽど剽軽者《ひょうきんもの》だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩《うまや》と鳥屋《とや》といっしょにあった。牝鶏《めんどり》の馬を評する語に、――あれは鶏鳴《とき》をつくる事も、鶏卵
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