だ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り除《の》けられた。女二人を調停するのは眼の前に快《こころよ》からぬ言葉の果し合を見るのが厭《いや》だからである。文錦《あやにしき》やさしき眉《まゆ》に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者《とりのけもの》を仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさく絡《からま》ってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子《ばつ》を合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑《けいべつ》する料簡《りょうけん》ではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの頭《かしら》に耀《かがや》かず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸が隙《す》く。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
 人を呪《のろ》わば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違《すじかい》に見えて、その先に井桁《いげた》があって、小米桜《こごめざくら》が擦《す》れ擦れに咲いていて、釣瓶《つるべ》が触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
 糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん擦《ず》り落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生《やよい》をどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣《そでがき》のはずれに幣辛夷《してこぶし》の花が怪しい色を併《なら》べて立っている。木立に透《す》かしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに映《うつ》る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
 居は気を移す。藤尾の想像は空と共に濃《こまや》かになる。
「小米桜を二階の欄干《てすり》から御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の後《うし》ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の音《ね》がするんです」
 琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家《となり》の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと掠《かす》める。
「ホホホホ御厭《おいや》なの――何だか暗くなって来た事。花曇りが化《ば》け出しそうね」
 そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから直《すぐ》すいと追懸《おいか》けて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降《ほんぶり》になりそうだ事」
「私《わたし》失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
 糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に崩《くず》れた。

        七

 燐寸《マッチ》を擦《す》る事|一寸《いっすん》にして火は闇《やみ》に入る。幾段の彩錦《さいきん》を捲《めく》り終れば無地の境《さかい》をなす。春興は二人《ににん》の青年に尽きた。狐の袖無《ちゃんちゃん》を着て天下を行くものは、日記を懐《ふところ》にして百年の憂《うれい》を抱《いだ》くものと共に帰程《きてい》に上《のぼ》る。
 古き寺、古き社《やしろ》、神の森、仏の丘を掩《おお》うて、いそぐ事を解《げ》せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠《けた》るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然《はき》とは映らぬ。瞬《またた》くも嬾《ものう》き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
 一人《いちにん》の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥《なまぐさ》き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏《まと》めたる団子《だんし》と、他の清濁を混じたる団子と、層々|相連《あいつらな》って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果《いんが》の交叉点に据えて分相応の円周を右に
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