板返《といたがえ》しにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去を逃《の》がるるは雲紫《くもむらさき》に立ち騰《のぼ》る袖香炉《そでこうろ》の煙《けぶ》る影に、縹緲《ひょうびょう》の楽しみをこれぞと見極《みきわ》むるひまもなく、貪《むさ》ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶《いっさつ》に、結ばぬ夢は醒《さ》めて、逆《さか》しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇《そうかんだ》あり、容易に青《せい》を踏む事を許さずとある。
「蔦屋《つたや》がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんな所《とこ》かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《きこ》えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家《おとなり》で美人が琴を弾《ひ》いてるのを、気楽に寝転《ねころ》んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
 小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、床《とこ》の山吹を無意味に眺《なが》めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
 詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわね[#「いいわね」に傍点]ぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の音《ね》も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い画《え》が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
 家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解《げ》しかねる。要《い》らぬ事と黙って控《ひか》えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――廻《まわ》り椽《えん》で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙《けむ》るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸《まある》い山は――あの山が、青い御供《おそなえ》のように、こんもりと霞《かす》んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾《かた》げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
 女詩人《じょしじん》の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
 五重の塔がどうもする訳《わけ》はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
 御機嫌に逆《さから》った時は、必ず人をもって詫《わび》を入れるのが世間である。女王の逆鱗《げきりん》は鍋《なべ》、釜《かま》、味噌漉《みそこし》の御供物《おくもつ》では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞《かすみ》のうちに腫物《はれもの》のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
 藤尾の眉《まゆ》はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に障《さわ》ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
 針鼠《はりねずみ》は撫《な》でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
 五重の塔を持ち出せばなお怒《おこ》られる。琴の音《ね》は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑《けいべつ》を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるよう
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