逆《さかし》まにして、過去をほじり出そうとするのは情《なさ》けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵《たいてい》の嘘《うそ》は渡頭《ととう》の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾《きんご》さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気《のんき》よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも家《うち》の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退《の》けたが、急に気がついて、羽二重《はぶたえ》の手巾《ハンケチ》を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の角《かど》を彩《いろ》どる金の筋がすっと外界に映《うつ》る。敵は首尾よくわが術中に陥《おちい》った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信《おたより》はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書《はがき》ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母《おば》さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると顫《ふる》える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾《ハンケチ》を出して、薄い口髭《くちひげ》をちょっと撫《な》でる。幽《かす》かな香《におい》がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の方《かた》を一《はじめ》さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっと勢《いきおい》を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗《きれい》だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精《ぶしょう》に似合わない事ね。何と」
「隣家《となり》の琴は御前より旨《うま》いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪《べっぴん》だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢《あ》っちゃ叶《かな》わない」
「でも、あなたの事は褒《ほ》めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪《べっぴん》だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を交《まじ》えたる眼を輝かして、すらりと首を後《うし》ろに引く。鬣《たてがみ》に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫《すみれ》のみが星のごとく可憐《かれん》の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条《さんじょう》に蔦屋《つたや》と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、縋《すが》る未来に全く吸い込まれたる人は、刹那《せつな》の戸
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