う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰《ごぶさた》をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「向島《むこうじま》は」
「まだどこへも行かないの」
宅《うち》にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が翳《さ》す。
「そんなに御用が御在《おあ》りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路《みち》である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側《むこうがわ》へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この袖《そで》は、この詩とこの歌は、鍋《なべ》、炭取の類《たぐい》ではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字を冠《かむ》らせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「一《はじめ》さんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑《うわすべり》をして前へ進む。糸子は返事をする前に顔を揚《あ》げて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を眤《じっ》と見る。針は真逆《まさか》の用意に、なかなか瞳《ひとみ》の中《うち》には出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ絡《から》まってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。一《はじめ》さんが貰うときまれば本気に捜《さ》がしますよ」
黐竿《もちざお》は届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は際《きわ》どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索《さぐり》の綱を、ぷつりと切って、逆《さか》さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの不手際《ふてぎわ》である。あたったのに手答《てごたえ》もなく装《よそお》わるるは不器量《ふきりょう》である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を噛《か》んだ。ここまで推《お》して来て停《とど》まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは私《わたし》の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に吾《われ》を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の中《うち》で冷笑《あざわら》って引き上げる。
甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人《ふたり》の妹は肝胆の外廓《そとぐるわ》で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い懸《か》けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを取《と》っ押《つかま》える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで馳《か》け込んで来た。袞竜《こんりょう》の袖に隠れると云う諺《ことわざ》がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは蹌々踉々《そうそうろうろう》として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に被《き》せる従容《しょうよう》の紋付を、まだ誂《あつら》えていない。二十世紀の人は皆この紋付《もんつき》を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便《たよ》る未来が戈《ほこ》を
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