劃《かく》し左に劃す。怒《いかり》の中心より画《えが》き去る円は飛ぶがごとくに速《すみや》かに、恋の中心より振り来《きた》る円周は※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の痕《あと》を空裏《くうり》に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎《かんきつ》の圜《かん》をほのめかして回《めぐ》る。縦横に、前後に、上下《しょうか》四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越《しんえつ》の客ここに舟を同じゅうす。甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君は、三春行楽《さんしゅんこうらく》の興尽きて東に帰る。孤堂《こどう》先生と小夜子《さよこ》は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端《はし》なくも喰い違った。
 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他《ひと》の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破《か》けて飛ぶ事がある。あるいは発矢《はっし》と熱を曳《ひ》いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄《すさ》まじき喰い違い方が生涯《しょうがい》に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自《おのず》からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢《お》うてただ別れる袖《そで》だけの縁《えにし》ならば、星深き春の夜を、名さえ寂《さ》びたる七条《しちじょう》に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢《ちょうたく》する。自然その物は小説にはならぬ。
 二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻《まぼろし》のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の方《かた》に搬《はこ》び去ろうか、さらに無頓着《むとんじゃく》である。世を畏《おそ》れぬ鉄輪《てつわ》をごとりと転《まわ》す。あとは驀地《ましぐら》に闇《やみ》を衝《つ》く。離れて合うを待ち佗《わ》び顔なるを、行《ゆ》いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠《そらい》を意とせざるを、一様に束《つか》ねて、ことごとく土偶《どぐう》のごとくに遇待《もてなそ》うとする。夜《よ》こそ見えね、熾《さか》んに黒煙《くろけむり》を吐きつつある。
 眠る夜を、生けるものは、提灯《ちょうちん》の火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒《かじぼう》が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋《うず》まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
 京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束《じっぱひとからげ》に夜明までに、あかるい東京へ推《お》し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに解《ほご》れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛《しゃりょう》の戸をはたはたと締めて行く。忽然《こつぜん》としてプラットフォームは、在《あ》る人を掃《は》いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛《くちぶえ》が遥《はる》かの後《うし》ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気《げ》に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は淋《さび》しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋《つたや》の隣家《となり》に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家《うち》を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは独《ひと》り言《ごと》のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ
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