にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追《おっ》つかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物《やっかいぶつ》だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲《たた》き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
 二人は茶碗の代を払って、停車場《ステーション》へ来る。
 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨《さが》より二条《にじょう》に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波《たんば》へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡《かめおか》に降りた。保津川《ほづがわ》の急湍《きゅうたん》はこの駅より下《くだ》る掟《おきて》である。下るべき水は眼の前にまだ緩《ゆる》く流れて碧油《へきゆう》の趣《おもむき》をなす。岸は開いて、里の子の摘《つ》む土筆《つくし》も生える。舟子《ふなこ》は舟を渚《なぎさ》に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷《こべり》は尺と水を離れぬ。赤い毛布《けっと》に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数《かず》は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿《たけざお》、続《つ》づく二人は右側に櫂《かい》、左に立つは同じく竿である。
 ぎいぎいと櫂《かい》が鳴る。粗削《あらけず》りに平《たいら》げたる樫《かし》の頸筋《くびすじ》を、太い藤蔓《ふじづる》に捲《ま》いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節《ふし》の隆《たか》きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻《か》く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根《くびね》を抑えられた櫂が、掻《か》くごとに撓《しわ》りでもする事か、強《こわ》き項《うなじ》を真直《ますぐ》に立てたまま、藤蔓と擦《す》れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
 岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停《とど》まる暇なきに、前へ前へと送る。重《かさ》なる水の蹙《しじま》って行く、頭《こうべ》の上には、山城《やましろ》を屏風《びょうぶ》と囲う春の山が聳《そび》えている。逼《せま》りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る
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