被下《くださるべく》候《そうろう》。
「御承知の通《とおり》小夜は五年|前《ぜん》当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速《すみや》かなる事を希望致し居候。同人|行末《ゆくすえ》の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述《もうしのべず》。追て其地にて御面会の上|篤《とく》と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓《ざっとう》の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰《えら》みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層《いっそ》途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報|可致《いたすべく》候《そうろう》。まずは右当用迄|匆々《そうそう》不一」
[#ここで字下げ終わり]
 読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた端《はじ》が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き留《どま》った時、やむを得ず、睛《ひとみ》を転じてロゼッチの詩集を眺《なが》めた。詩集の表紙の上に散った二片《ふたひら》の紅《くれない》も眺めた。紅に誘われて、右の角《かど》に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日《おととい》挿した椿《つばき》は影も形もない。うつくしい未来を覗く管《くだ》が無くなった。
 小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上《のぼ》る。一種古ぼけた黴臭《かびくさ》いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇《ちゅうちょ》する毛筋の末を引いて、細い縁《えにし》に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面《ま》のあたりに結び合わす香《におい》である。
 半世の歴史を長き穂の心細きまで逆《さか》しまに尋ぬれば、溯《さかのぼ》るほどに暗澹《あんたん》となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝《え》の末に、錐《きり》の力の尖《とが》れるを幸《さいわい》と、記憶の命を突き透《とお》すは要なしと云わんよりむしろ無惨《むざん》である。ジェーナスの神は二つの顔に、後《うし》ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背《そびら》を過
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