また玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
 甲野さんは、だまって宗近君の眉《まゆ》の間を、長い事見ていた。御昼の膳《ぜん》の上には宗近君の予言通り鱧《はも》が出た。

        四

 甲野《こうの》さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁《しょうしいんねん》無了期《りょうきなし》、色相世界《しきそうせかい》現狂癡《きょうちをげんず》」
 小野さんは色相《しきそう》世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖《つつそで》を着て学校へ通う時から友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遇《あ》った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
 水底《みなそこ》の藻《も》は、暗い所に漂《ただよ》うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺《うご》こうが、左《ひだ》りに靡《なび》こうが嬲《なぶ》るは波である。ただその時々に逆《さか》らわなければ済む。馴《な》れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇《ひま》もない。なぜ波がつらく己《おの》れにあたるかは無論問題には上《のぼ》らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生《は》えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
 京都では孤堂《こどう》先生の世話になった。先生から絣《かすり》の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園《ぎおん》の桜をぐるぐる周《まわ》る事を知った。知恩院《ちおんいん》の勅額《ちょくがく》を見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前《いちにんまえ》は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目の眩《くら》む所である。元禄《げんろく》の昔に百年の寿《ことぶき》を保ったものは、明治の代《よ》に三日住んだものよりも短命である。余所《よそ》では人が蹠《かかと》であるいている。東京では爪先《つまさき》であるく。逆立《さかだち》をする。横に行く。気の早いものは飛
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