》から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽《えん》まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色《けしき》がない。
「おい、どうも東山が奇麗《きれい》に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川《かもがわ》を渉《わた》る奴《やつ》がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団《ふとん》着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩《みずかさ》が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差《さ》し支《つか》えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖《きんぶすま》の筍《たけのこ》を横に眺《なが》め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我《が》を折って部屋の中へ這入《はい》って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何《いくつ》だと思う」
「幾歳《いくつ》だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然《はっきり》云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田《しまだ》だよ」
「座敷でも開《あ》いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減《いいかげん》な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴《き》きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍《たけのこ》を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背《せい》が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙《からかみ》に三本|描《か》いたのは、どう云う因縁《いんねん》
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